区分 | 名称 | 年代 | 指定年月日 | 所有者・管理者 |
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国 | 下之郷遺跡 | 弥生 | 平成14年3月19日 | 守山市 |
国 | 伊勢遺跡 | 弥生 | 平成24年1月24日 | 守山市 |
県 | 今宿一里塚 | 江戸 | 平成7年3月31日 | 守山市 |
市 | 聞光寺庭園 | 室町 | 昭和52年4月30日 | 聞光寺 |
市 | 蜊江神社境内 | 近世 | 昭和52年4月30日 | 蜊江神社 |
市 | 大庄屋諏訪家屋敷 | 江戸 | 昭和52年4月30日 | 守山市 |
市 | 古高古墳群 | 古墳 | 昭和52年4月30日 | 守山市 |
市 | 寺山古墳群 | 古墳 | 昭和52年4月30日 | 守山市 |
市 | 蓮生寺境内(本堂除く) | 近世 | 昭和52年4月30日 | 蓮生寺 |
市 | 山本正右衛門家住宅 | 江戸 | 平成25年12月27日 | 個人 |
昭和55(1980)年の公共下水道工事で弥生時代の溝、柱穴が検出され、弥生土器、石鏃が出土したことから、下之郷遺跡と命名されました。その後、下之郷町一帯で行われる工事に注意を払って発掘調査などを実施し、下之郷遺跡が3条以上の環濠を巡らせる巨大な環濠集落であることが判明しました。平成10年、市道改良工事で発掘調査を実施した結果、6条の環濠、円形壁立式建物、遺跡中央部で方形区画溝や掘立柱建物などが発見されました。それにより本遺跡が滋賀県最大の環濠集落であり、当時の政治動向や社会、人々の生活を窺う出土品が豊富に埋蔵され、自然環境も復原できる遺跡であることが判明し、平成14年3月に国指定史跡となりました。 下之郷遺跡は、弥生時代中期後葉(紀元前3~前1世紀)の多重環濠集落跡です。集落の外周には3~9重の環濠が掘られていて、遺跡の全体規模は東西約670m、南北約460mで、面積はおよそ25ヘクタールにおよび近江地域で最大を誇ります。 環濠の内側、集落部分には掘立柱建物、壁立式平地建物、井戸跡などが密集しており、竪穴住居は発見されていません。集落西側の環濠には出入口が確認されていて、その付近では石剣、石鏃、銅剣、弓などの武器や武具が数多く出土していることから、戦いもあったことが推定されます。集落の中央部では、およそ東西南北方向に掘られた溝で区画された大型建物跡が複数みつかっており、祭りや政治などを行う特に重要な場所ではないかと推定されます。
名称 | 下之郷遺跡(しものごういせき) |
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文化財の種類 | 国指定史跡 |
文化財の指定日 | H14年3月19日 |
大きさ/時代 | 32,866.5平方メートル/弥生時代 |
文化財の所在地 | 守山市下之郷一丁目他 |
伊勢遺跡は、守山市伊勢町、阿村町、栗東市野尻に広がる弥生時代から鎌倉時代の集落跡です。昭和55年に発見され、平成23年度までに約110箇所余りで発掘調査や試掘、確認調査を実施してきました。その結果、西はJR線の少し西側、北は日本バイリーン株式会社近く、東側は日本コカコーラ株式会社、南は栗東市野尻までの広さで、東西約700m、南北約400mに達し、面積が約30万平方メートルの巨大な集落跡であることがわかりました。弥生時代後期の集落遺跡としては国内最大級の遺跡です。 平成4年、伊勢遺跡の中心部で、弥生時代後期の国内最大の大型建物跡が発見されました。その後、4棟の大型建物がL字型に配置されていることがわかり、政治を執り行う施設と考えられています。また、翌年から平成15年にかけて、祭殿と呼ぶ建物跡が次々と発見されたほか、楼観(ろうかん)と呼ばれる多層構造の大型建物などが発見されています。現在までに大型建物が合計13棟も見つかっていて大型建物の発見数も全国最多であり、近江南部地域を中心に形成されたクニの中心となる遺跡と考えられています。 このような遺跡は国内では例がなく、弥生時代の王の住いと政治や祭祀が行われた貴重な遺跡です。我が国の歴史上、国の成り立ちを知ることができる国内唯一の遺跡として高く評価されています。
名称 | 伊勢遺跡(いせいせき) |
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文化財の種類 | 国指定史跡 |
文化財の指定日 | H24年1月24日 |
大きさ/時代 | 15,716平方メートル/弥生時代後期 |
文化財の所在地 | 守山市伊勢町 |
慶長9年(1604)に、徳川家康によって主要街道(東海道、中山道、日光街道など)に一里塚が築かれた。街道が集束する江戸日本橋を起点として、一里(約4㎞)毎に街道の両側に築かれた5間(約9m)四方の塚で、そこには榎や松などが植えられた。今宿一里塚は日本橋から127里(約500㎞)にあたる。129番目の一里塚となる。 一里塚は、馬や籠の駄賃の基準となった他、街道を旅する人々の旅程の目安でもあり、格好の休息場でもあった。明治時代には、多くの一里塚が残っていたと思われるが、自動車の普及による拡幅工事によって、大多数が消滅した。今宿一里塚は、滋賀県内で唯一残るもので、全国的にも数少ない陸上交通に関わる史跡で、県指定文化財となっている。
名称 | 今宿一里塚(いまじゅくいちりづか) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | 平成7年3月31日 |
時代 | 江戸時代 |
文化財の所在地 | 守山市今宿二丁目 |
蓮如聖人の教化を受けて造られた荒見道場が発展して寺院になった聞光寺は、信長との戦禍から逃れ、当時のたたずまいを良く残している。庭園は本堂の西側にあり、蓮如聖人の手によるものと伝えられ、築山の形状を採用したものである。真宗寺院の庭の例としては数少ないものと言える。古式の形をよく残しており、室町時代の作と考えられている。
名称 | 聞光寺庭園(もんこうじていえん) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
大きさ/時代 | 150.8平方メートル/室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市矢島町76(聞光寺) |
笠原町の北側、野洲川に摸して鎮座する蜊江禅社は約4200坪もある広大な境内で、閑静なたたずまいである。明治初期に全国で廃仏毀釈が徹底され、神社に元々あった仏堂、仏像、仏具が取り払われたが、本神社は神仏習合当時の社殿配置を整然とした姿で伝えている。全国的に見ても非常に貴重な例であると考えられる。境内には、地蔵堂などの堂が今も残っており、門も古い形式で残っている。毎年、夏には神前で僧侶により、大般若経の転読が古式にのっとり行われている。
名称 | 蜊江神社境内(つぶえじんじゃけいだい) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
大きさ/時代 | 面径13,860平方メートル/近世 |
文化財の所在地 | 守山市笠原町939(蜊江神社) |
赤野井町の東別院の北側に、広大な敷地に草葺きの民家がある。江戸時代から続いた由緒ある庄屋の建物である。屋敷地は面積約4,000㎡もあり、内部に母屋、客殿、蔵、茶室、庭園をひかえている。母屋、客殿、庭園、蔵、は江戸時代後期の作で、茶室のみ明治になって大津市円満院から移築された。庭園は池泉回遊式と枯山水式とを合わせた見事なコケのあるものである。また、屋敷裏の大川から米を積んだ船が出入りできるように水門が作られている。
名称 | 大庄屋諏訪家屋敷(おおじょうやすわけやしき) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
大きさ/時代 | 3,980平方メートル/江戸時代 |
文化財の所在地 | 守山市赤野井町171 |
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松 塚 古 墳 | 幸 田 塚 古 墳 | 狐 塚 古 墳 |
古高工業団地の中に三基の古墳が保存されている。東側から狐塚、松塚、幸田塚古墳の名が付けられている。工業団地造成の際に伝承のあった古墳が保存されたのだが、三基の中で最大の古墳が松塚である。直径約30mの円墳で、昭和60年ころまでは表面には松がたくさんあったことからその名が付いた。5世紀後半頃に造られたと考えられる。 狐塚は昭和30年代ころには古墳の上に祠があったらしく、古墳の形も少し変形しているが、直径15m前後の円墳と考えられる。およそ6世紀頃に築かれたと考えられる。 一番西側の幸田塚古墳は相当崩壊しているが、円墳で直径10m前後であったと考えられる。やはり6世紀頃の古墳である。
名称 | 古高古墳群(ふるたかこふんぐん) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
時代 | 古墳時代 |
文化財の所在地 | 守山市古高町 |
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寺 山 古 墳 1 号 墳 | 寺 山 古 墳 2 号 墳 |
岡町の自治会館北側の公園の中に1基(1号墳)とその南側に約50m離れて1基(2号墳)が保存されている。守山市では数少ない現存する古墳の一つである。2基とも直径約15m前後の大きさで高さも2m前後と考えられる。1号墳は大正年間に発掘調査が行われ横穴式石室が見つかり、埴輪、須恵器、土師器が出土している。この岡町から立入町にかけては多数の古墳があったようで字名などにも塚の名が残っている。
名称 | 寺山古墳群(てらやまこふんぐん) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
時代 | 古墳時代 |
文化財の所在地 | 守山市岡町 |
三宅町の南端にある蓮生寺は周囲に土塁が巡っている。江戸時代初期に再建されたが、元は三宅城跡とされている。織田信長が元亀年間にこの一帯の一向宗徒を攻め、攻略したが、隣接の金森町懸所にあった金森城の出城として造られた伝承のある土地である。
名称 | 蓮生寺境内(本堂除く)(れんしょうじけいだい) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
大きさ/時代 | 2,242平方メートル/近世 |
文化財の所在地 | 守山市三宅町1029(蓮生寺) |
中山道守山宿の加宿であった今宿一丁目143番町に存する主屋および蔵2棟、庭園3か所は江戸時代末期に建築、造園時期が比定できる。 主屋は中山道に面する平入りの商家風建物で、木造二階建て切妻造り、桟瓦葺きの建物で、間取りは2列5室である。建物内部の土間の構成や架構は重層な雰囲気を醸し出している。外観は、格子窓が連なる「つし2階」の主体部を中央にして、左側には格子窓と下地窓の並ぶ平屋建ての棟と土蔵を配し、右側には落棟の座敷の前面に板塀と門を構え、変化に富み、江戸時代末期にふさわしい豪壮かつ繊細な商家風建物である。また、母屋、庭園で隔てられた位置に建つ蔵は、一つの屋根を中央で分割する大変珍しい特徴があり、貴重である。 庭園は利用形態の異なる3か所が現存している。上手街道側に来客用座敷に備えられた小規模な前庭は、表門から沓脱石まで直線的に石畳が敷かれ、数本の樹木で構成された簡素な庭園である。その延長にある庭園は、石燈籠、土蔵を背景にした石組などの基本的な構成が保たれている。泉水を配した庭園は、数奇の空間を保ち、客間から池の水際まで降りる石段の構造となっており、煎茶の庭にみる「降り井」を意図させる。3か所の庭園はいずれも改修の手が加えられているものの良好な状態が保たれており、主要な意匠および構成要素が損なわれていない。
名称 | 山本正右衛門家住宅(やまもとしょうえもんけじゅうたく) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | H25年12月27日 |
大きさ/時代 | 588.98平方メートル/江戸時代 |
文化財の所在地 | 守山市今宿町143(山本) |