守山市教育委員会事務局 文化財保護課

守山市吉身二丁目5-22
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守山の文化財

太古より、野洲川の本流は洪水を繰り返し、土砂を堆積させ、川の位置を変化させてきました。また、本流と支流との間に扇状地を形成し、自らその扇状地を破壊しながらその下流側に新しい扇状地や自然堤防を次々と形成しました。
守山の地は、そのような平地の上に立地しています。

遺跡の発掘調査や現在の地形により、今の流れになる前の野洲川は栗東の出庭辺りから浮気、金森、大門、三宅、欲賀、森川原を通って烏丸半島の南側で琵琶湖に注いでいたと考えられています。
流れが築いた堤防が微高地として残り、その微高地に人々が定住し集落ができ、村が形成されました。また、氾濫を繰り返してできた肥沃な土壌は米づくりに適し、「屯倉=三宅(皇室の領地)」として統治されました。さらに、守山が陸路(中山道)・水路(琵琶湖)の拠点であったことも、豊かな米生産地として発展した理由の一つです。

中世になると、豊かな米作地には人が集まり、商人が生まれ、中山道や志那街道は米や商品を運ぶ商人で賑わいました。それとともに武士が現れました。また農民たちは力をつけ、自治的な村(惣村)を作り始めました。
このような社会情勢の中で、人々は仏教を信仰し心の拠り所とすることで、平安と幸福を求めました。守山において、鎌倉時代は天台宗が主でしたが、室町時代には蓮如の登場により浄土真宗が広がりました。守山で醸成された宗教的風土は、同時に仏像や絵画など美術品を数多く生み出し、現在もなお、人々に祀られ、文化財として大切に残されています。

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