守山市の指定文化財
守山市は滋賀県の南東部、中山道など陸路やびわ湖の水上交通の要衝にあるだけでなく、穀倉地帯としても古くから栄えてきました。そのような地理的・歴史的な背景から、数多くの貴重な文化財が存在します。
区分 | 名称 | 年代 | 指定年月日 | 所有者・管理者 |
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県 | 絹本著色仏涅槃図 | 鎌倉 | 昭和62年3月30日 | 少林寺 |
県 | 絹本著色一休宗純像(朱太刀像)墨渓筆 附一休和尚像板木 | 室町 | 平成26年1月17日 | 少林寺 |
県 | 絹本著色一休宗純像 墨渓筆 | 室町 | 平成26年1月17日 | 少林寺 |
市 | 絹本著色光明本尊 | 室町 | 昭和50年10月23日 | 赤野井西別院 |
市 | 絹本著色山越阿弥陀図 | 室町 | 昭和50年10月23日 | 西隆寺 |
市 | 絹本著色大谷本願寺親鸞聖人御影 | 室町 | 昭和52年4月30日 | 聞光寺 |
市 | 絹本著色筋後光正面阿弥陀如来画像 | 室町 | 昭和56年4月24日 | 慶先寺 |
市 | 絹本著色親鸞聖人御影 | 室町 | 昭和56年4月24日 | 慶先寺 |
市 | 絹本著色仏涅槃図 | 室町 | 平成9年4月1日 | 観音寺 |
市 | 絹本著色十王図 | 室町 | 平成9年4月1日 | 観音寺 |
市 | 三十六歌仙絵 | 江戸 | 平成9年4月1日 | 天満宮 |
市 | 絹本著色聖徳太子勝鬘経講讃図 | 室町 | 平成28年1月15日 | 少林寺 |
矢島町の古刹、少林寺に伝わる仏涅槃図は縦長幅横形式です。釈迦入滅の様子が描かれているものを涅槃図と呼びますが、中央に沙羅双樹に囲まれた宝台上に右手を手枕にして横たわる釈迦の姿を大きく表現しています。周囲には、死を嘆き悲しむ諸尊や鳥獣を配し、右上には雲の乗った摩耶夫人が阿那律に導かれて降りてくる様が描かれています。このような構図は鎌倉時代以降に多く見られる定型化したものです。肥痩のある屈曲の激しい描線を多用する的確な描き方は宗元画の影響を受けたものでしょう。また、朱、緑青、橙、白緑などの色彩を用いて、全体に落ち着いた明るい色調で仕上げています。鎌倉時代後期の作で、数ある涅槃図の中でも優品です。
名称 | 仏涅槃図(ぶつねはんず) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 絵画 |
文化財の指定日 | S62年3月30日 |
時代 | 鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市矢島町1227(少林寺) |
室町時代中期に活躍した臨済宗の僧、一休宗純(1394~1481)の頂相(ちんぞう)(=禅僧の肖像)です。本図を伝える少林寺は、室町時代の文明年中(1469~87)に、一休の高弟(=最も優れた弟子)である桐岳紹鳳(とうがくしょうほう)が開きました。
画面上部に享徳元年(1452)12月の一休自賛があり、一休59歳の肖像であることがわかります。竹箆(しっぺい)(=竹でできた僧侶が持つ棒)を手に取り、左足を踏み下げて曲彔(きょくろく)と呼ばれる椅子に座っていますが、曲彔の脇に長い朱鞘(しゅざや)(=朱色のさや)の太刀が立て掛けられています。これは永享7年(1435)に一休が堺の市中で世間の僧侶を木剣(ぼっけん)にたとえて嘲笑した故事に因むもので、この種の作例は「朱太刀像(しゅだちぞう)」と称され、一休独特の頂相として数例伝来しています。 本図には「墨渓(ぼっけい)」の印章が押されており、本図が室町時代の画僧、墨渓(生没年不詳)によって描かれたことがわかります。墨渓は、名は兵部(ひょうぶ)と称し、墨渓の号は一休より授けられたものです。 一休ゆかりの寺院に伝来した本図は、一休宗純の初期頂相であり、室町禅宗寺院の水墨画において重要な位置を占める墨渓の、現存する最古の作として絵画史上高く評価されます。 なお、少林寺には本図を写した版木(はんぎ)が伝えられています。製作は近世初期と考えられますが、少林寺における朱太刀像への信仰を示す資料として他に類例の無いものであり、本図に付随して指定されました。名称 | 絹本著色一休宗純像(朱太刀像)墨渓筆 附 一休宗純像版木 1枚(けんぽんちゃくしょくいっきゅうそうじゅんぞうぼっけいひつ) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 絵画 |
文化財の指定日 | H26年1月17日 |
大きさ/時代 | 100.7cm×38.3cm 室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市矢島町1227(少林寺) |
こちらも一休宗純(1394~1481)の頂相です。少林寺に、朱太刀像とともに伝来しました。 朱太刀像と同じく、画面上部に享徳元年(1452)の一休自賛があり、一休59歳の肖像であることがわかります。竹箆(しっぺい)を手に取り、左足を踏み下げて曲彔(きょくろく)に坐す通例の姿で描かれています。本図は賛文から、一休が晩年を過ごした酬恩庵(しゅうおんあん)(京都府京田辺市)に伝来したものと推定されますが、少林寺に伝来した時期は定かではありません。
朱太刀像と同様「墨渓」の印章が押されており、室町時代の画僧、墨渓によって描かれたことがわかります。 少林寺に伝わる2幅の一休宗純像は同時期に描かれていますが、壮年期の容ぼうで描かれた朱太刀像に比べ、本図に描かれた一休は髭が生え、しわも多く描かれており、老年の容ぼうに変化しています。これは享徳2年、一休六十歳の自賛を有する墨渓筆出光美術館本をはじめ、真珠庵や酬恩庵に伝来する一休晩年時の頂相に近いものです。 一休ゆかりの寺院に伝来した本図は、同一時期に描かれた朱太刀像と同様、一休宗純の初期頂相として貴重で、墨渓の筆による現存最古の作例として絵画史上高く評価されています。名称 | 絹本著色一休宗純像 墨渓筆(けんぽんちゃくしょくいっきゅうそうじゅんぞうぼっけいひつ) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 絵画 |
文化財の指定日 | H26年1月17日 |
大きさ/時代 | 91.9cm×37cm 室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市矢島町1227(少林寺) |
赤野井西別院に伝えられている光明本尊は室町時代の作です。了源の創始である仏光寺は京都東山の西麓にあって、親鸞の教化を受けた人々が各地へでて、教化活動をしていました。仏光寺では教化にあたって、光明本尊と言われる名号本尊を用いました。名号本尊を図相化して先徳、師資相承の念仏者の像を描いたもので、仏光寺の教化の跡を示す唯一の文化財です。
名称 | 絹本着色光明本尊(けんぽんちゃくしょくこうみょうほんぞん) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 絵画 |
文化財の指定日 | S50年10月23日 |
大きさ/時代 | 89.5cm×158.5cm 室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市赤野井町326(赤野井西別院) |
阿弥陀来迎図は、往生者を迎えるため仏と菩薩が浄土から現世に到来する様子を情景的に描写したものです。本図は比較的小幅ながら、まとまりがよく、阿弥陀信仰が盛期を過ぎた頃、図画されたもので、山越しに阿弥陀が来迎した様子が描かれています。南北朝時代の作風で、技術的には最も熟達した頃です。なお、山越阿弥陀は鎌倉時代以降、浄土教の普及に伴い変化した阿弥陀図の一つです。
名称 | 絹本着色山越阿弥陀図(けんぽんちゃくしょくやまごえあみだず) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 絵画 |
文化財の指定日 | S50年10月23日 |
大きさ/時代 | 72.5cm×45.3cm 室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市岡町246(西隆寺) |
矢島町荒見の集落の南端にある聞光寺に伝わる親鸞聖人御影は親鸞と蓮如の連座画像の構図になっています。寛正5年(1465)11月28日、報恩講満座の日に下付されたことが裏書によってわかります。聞光寺縁起書によると、元は天台宗でしたが、蓮如の布教活動によって石原新左衛門信晴が弟子となり、真宗に帰入しました。その際に蓮如から下付されたのがこの御影と本尊の十字名号です。真宗帰入後は荒見道場と呼ばれ、布教活動の拠点となりました。
名称 | 絹本着色大谷本願寺親鸞聖人御影(けんぽんちゃくしょくおおたにほんがんじしんらんしょうにんごえい) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 絵画 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
大きさ/時代 | 55.5cm×111.0㎝ 室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市矢島町75(聞光寺) |
山賀町のほぼ中央に、本願寺派に属す古刹の慶先寺があります。この阿弥陀如来の絵像一幅は蓮華座の上に立ち、光背から放射状に広がる後光を書いた画像で、室町時代初期の作風がうかがえます。山賀は古く「山家」と記され、比叡山との関連を示唆する文字が残されています。
名称 | 絹本着色筋後光正面阿弥陀如来画像(けんぽんちゃくしょくきんごこうしょうめんあみだにょらいがぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 絵画 |
文化財の指定日 | S56年4月24日 |
大きさ/時代 | 91cm×36cm 室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市山賀町334(慶先寺) |
山賀町慶先寺に伝わる絹本着色親鸞聖人御影は、本願寺蓮如時代の親鸞と蓮如の連座画像で、全国的にみても数少ない貴重な画です。親鸞は二狭間の礼盤に、蓮如は高麗縁畳にそれぞれ座しています。礼盤に繧繝縁の畳座をおき、斜め右を向いて坐し、数珠を爪繰る親鸞聖人像とその斜め下に高麗縁の畳座に斜め左を向いて坐し、数珠を爪繰る蓮如上人像を描かれています。本願寺第8世を継職した蓮如の、親鸞からの法脈の継承を視覚化したもので、裏書によると、文明7年(1475)5月16日に錦織寺(浄土宗木辺派本山)から本願寺派に転派した際に蓮如より下付されたものであることがわかります。 浄土真宗は親鸞の没後、大谷派、仏光寺派、木辺派など分派独立の状況にありましたが、再び統一するための布教活動を各地で行ないました。守山ではおよそ三年あまり、金森を拠点に活動し、その結果、他宗派から多くの帰入がありました。当寺も山賀道場と呼ばれていたことが文書からうかがえます。
名称 | 絹本着色親鸞聖人御影(けんぽんちゃくしょくしんらんしょうにんごえい) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 絵画 |
文化財の指定日 | S56年4月24日 |
大きさ/時代 | 95.7cm×50.3cm 室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市山賀町334(慶先寺) |
観音寺に所蔵されている仏涅槃図は、裏書によると永禄12年(1569年)に野洲郡秋富郷にあった観音寺に藤田彦左衛門が寄贈したものであることがわかります。絵は中央に釈迦が露台の上で横たわり、周囲に高僧が集まり悲しんでいる情景の構図です。前面の下には動物が描かれていて、虎の左上に鈴を付けた猫が描かれている珍しいものです。 寳暦10年(1760)に修理が行われているこが裏書から判りますが、極めて保存状態が良好です。室町時代後期の作として貴重な仏画であり、人々の厚い信仰と保存の意思が込められた作品といえます。
名称 | 絹本着色仏涅槃図(けんぽんちゃくしょくぶつねはんず) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 絵画 |
文化財の指定日 | H9年4月1日 |
大きさ/時代 | 89.5cm×158.5cm 室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市水保町(観音寺) |
観音寺に保存されている十王図は世の中の人々が死んだ後、地獄や極楽(浄土)に導かれる宗教思想を描いた図です。四幅の絵は、死者が生前の功罪によって冥府の十王に裁定され、いろいろな処遇を受ける場面から成っています。当時考えられていた死後の世界を描いた絵画として仏教思想を考える上で貴重です。この絵画も当時の人々の信仰を集め、以後長く保存されてきた仏画です。裏書に天正元(1573)年の銘があります。(写真は四幅の内の一幅)
名称 | 絹本着色十王図(けんぽんちゃくしょくじゅうおうず)4幅 |
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文化財の種類 | 市指定文化財 絵画 |
文化財の指定日 | H9年4月1日 |
大きさ/時代 | 99cm×79cm 室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市水保町(観音寺) |
中山道に面した守山宿の中にある天満宮は、明治11年に東門院から移築された神社であり、社務所に三十六歌仙絵が保存されています。木板表面の上半に和歌を、下半にその作者を描いた構造であり、和歌は墨書とし、絵は色絵で着色されています。墨書はやや風化が見られるものの、絵は保存状態も良好で、現在は中山道街道文化交流館に展示公開しています。 歌仙絵は鎌倉時代に最も盛んに作られましたが、この天満宮の歌仙絵は、天満宮の寄贈と合わせて京都の高辻家から伝えられたと言われており、少なくとも江戸時代末以前の作と考えられます。市内で唯一の完全に揃った歌仙絵であり、極めて貴重です。また製作当時の文化を知る上で重要です。
名称 | 三十六歌仙絵(さんじゅうろっかせんえ) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 絵画 |
文化財の指定日 | H9年4月1日 |
大きさ/時代 | 49.3cm×35.1cm 江戸時代 |
文化財の所在地 | 守山市守山二丁目(天満宮) |
聖徳太子勝鬘経講讃図とは聖徳太子が「勝鬘経」という経典について、その教えを講義している姿を描いたものです。平安時代に同じ場面が描かれた絵は全国に多数ありますが、そのほとんどは聖徳太子の生涯を描いた絵巻物の中に一場面として描かれています。少林寺の勝鬘経講讃図のように単独で描かれた絵画は希少で、奈良の法隆寺や三重の西来寺、兵庫の斑鳩寺などに伝わるものは国の重要文化財に指定されています。 少林寺の絵も他の聖徳太子勝鬘経講讃図と同じ構成ではありますが、法隆寺のものに描かれた聴衆(恵慈(えじ)、覚哿(かくか)、小野妹子、蘇我馬子(そがのうまこ)、中大兄皇子)と西来寺のもののように室内のしつらえを合わせて描き、しっかりした筆さばきと細かな描写が見られることは特筆すべきです。 なお、「勝鬘経」とは大乗仏教の経典です。「勝鬘夫人(しょうまんぶにん)」という女性の在家信者が、大乗仏教の教えを説いたもので、釈迦がそれを正しいものと認めたと言われています。「仏の真実の教えは唯一であり、それによって全ての人々は平等に成仏する可能性を内面に持っている」ことを説いています。
名称 | 絹本著色聖徳太子勝鬘経講讃図(けんぽんちゃくしょくしょうとくたいししょうまんぎょうこうさんず) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 絵画 |
文化財の指定日 | H28年1月15日 |
大きさ/時代 | 85.4cm×40.6cm 室町時代 |
文化財の所在地 | 滋賀県立琵琶湖文化館 |
区分 | 名称 | 年代 | 指定年月日 | 所有者・管理者 |
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国 | 木造宇迦乃御魂命坐像 | 平安 | 明治42年4月5日 | 小津神社 |
国 | 木造千手観音立像 | 平安 | 大正15年8月30日 | 安楽寺 |
国 | 木造十一面観音立像 | 平安 | 明治42年4月5日 | 福林寺 |
国 | 木造薬師如来坐像 | 平安 | 明治42年4月5日 | 東福寺 |
国 | 木造仏頭 | 平安 | 明治42年4月5日 | 蓮生寺 |
国 | 木造聖観音坐像 | 平安 | 明治42年4月5日 | 守山市 |
国 | 木造不動明王坐像 | 平安 | 明治42年4月5日 | 東門院 |
県 | 木造大日如来坐像 | 鎌倉 | 昭和55年4月18日 | 大日堂保存会 |
県 | 木造如来形坐像、菩薩形立像 | 平安 | 昭和57年3月31日 | 東福寺 |
県 | 木造菩薩形立像 | 平安 | 昭和57年3月31日 | 東福寺 |
県 | 木造地蔵菩薩坐像 | 平安 | 平成24年3月19日 | 幸津川地蔵堂保存会 |
市 | 木造矜羯羅童子立像 | 平安 | 昭和46年6月28日 | 東門院 |
市 | 木造制托迦童子立像 | 平安 | 昭和46年6月28日 | 東門院 |
市 | 銅造誕生釈迦仏立像 | 奈良 | 昭和56年4月24日 | 大光寺 |
市 | 木造薬師如来坐像 | 平安 | 昭和55年4月18日 | 大日堂保存会 |
市 | 木造薬師如来坐像 | 平安 | 昭和56年4月24日 | 慈眼寺 |
市 | 木造日光菩薩立像 | 鎌倉 | 昭和56年4月24日 | 慈眼寺 |
市 | 木造月光菩薩立像 | 鎌倉 | 昭和56年4月24日 | 慈眼寺 |
市 | 木造聖観音立像 | 平安 | 昭和62年3月31日 | 津田組 |
市 | 木造阿弥陀如来立像 | 鎌倉 | 昭和62年3月31日 | 津田組 |
市 | 木造十一面観音立像 | 鎌倉 | 平成9年4月1日 | 東光寺 |
市 | 木造一休和尚坐像 | 室町 | 平成12年5月12日 | 少林寺 |
市 | 木造天部形立像 | 奈良 | 平成16年11月25日 | 蜊江神社 |
市 | 木造女神坐像 | 平安 | 平成16年11月25日 | 蜊江神社 |
市 | 木造化仏 | 平安 | 平成16年11月25日 | 蜊江神社 |
市 | 木造狛犬 | 鎌倉 | 平成16年11月25日 | 蜊江神社 |
市 | 木造狛犬 | 鎌倉 | 平成16年11月25日 | 蜊江神社 |
小津神社の御神像として本殿に安置される宇迦乃御魂命坐像は、国指定の重要文化財である。古来、神の姿は目に見えないもの、形に表せないものと信じられてきたが、仏教の隆盛と神仏習合の思想の高揚によって神像が造られるようになった。 この女神像はその代表的なもので、松尾神社、薬師寺に伝わる神像とともに我が国三神像の一つに挙げられる。像高約50cmの一木造りの彩色像で、下ふくれの顔、垂髪の頭上には蓮冠を飾り、たてた片膝に宝珠をもった左手を置く像容には仏教の影響がうかがわれる。
名称 | 木造宇迦乃御魂命坐像(もくぞううかのみたまのみことざぞう) |
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文化財の種類 | 国指定重要文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | M42年4月5日 |
大きさ/時代 | H 50cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市杉江町495(小津神社) |
乾勝山安楽寺はもと天台宗であったのを黄檗宗に改めたという。本尊千手観音は、この寺が天台宗の頃のもので、いまは、本堂須弥壇上の厨子内に奉安されているが、藤原時代の典型的な仏像である。 像は寄木造で、比較的鮮やかな彩色像で、低い岩形台座の上に立って、頭上に十一面の化仏をいただき、本手、脇手あわせて40手をそなえ、仏身とともに、左右の調和がよくとれた、おごそかな姿である。そのうえ、満月相でほほえみを含んだお顔や、女性的ななで肩は、藤原時代の明朗さ、おだやかさ、円満さをよく物語っている。又このことは、柔和や伏し目にも見られるところである。一般的に千手像は復補が多いものであるが、この像は頭光、天衣などの他は、ほとんど補修されておらず造顕当初のままである。
名称 | 木造千手観音立像(もくぞうせんじゅかんのんりゅうぞう) |
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文化財の種類 | 国指定重要文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | T15年8月30日 |
大きさ/時代 | H 162cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市勝部1丁目14-10(安楽寺) |
福林寺は大慈山と号し、伝教大師最澄の開基といわれている。この寺の奥に、最近収蔵庫を建設し安置しているのが十一面観音立像である。寺伝では、伝教大師の作とされ、月光を光背として、五色の蓮華台座に立ち、豊かな頬や、まろやかな肩、胸部・衣の線が非常に美しい。 現在は外されているが、厨子の両扉内側に、明暦4年(1658)3月18日をはじめ、寛文、元禄、享保、寛政、明治など開扉年月日とその時の導師名とを記している。開帳は33年毎と伝えられ、幾多の戦禍や天災などに耐え、現在の尊容を拝し得るのは、木浜在住の人たちで結ばれた「弓講」の方々の献身的な努力によるものである。
名称 | 木造十一面観音立像(もくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう) |
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文化財の種類 | 国指定重要文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | M42年4月5日 |
大きさ/時代 | H180cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市木浜町2011(福林寺) |
立入町の北西端にある東福寺の本堂に安置されている四躯の仏像のうち、中央の左側が薬師如来である。半丈六の大きさの坐像で、桧材の内刳り寄木造りである。右手は掌を前に向け、施無畏印を結び、左手には薬壷を持つ木眼の半金像であるりふくよかな顔と身体、なで肩、螺髪などに平安時代の作風を伝えている。薬師如来は衆生の病苦を救う仏であり、その端正な容貌のうちに大きな慈悲の心を表現している。
名称 | 木造薬師如来坐像(もくぞうやくしにょらいざぞう) |
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文化財の種類 | 国指定重要文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | M42年4月5日 |
大きさ/時代 | H145cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市立入町110(東福寺) |
三宅町の中央北側には、蓮生寺が飛び地として管理する薬師堂がある。そこに安置される仏像は明治四十二年四月五日に国の重要文化財に指定されている。指定を受けたときは仏頭のみの保存であったため、「薬師堂木造仏頭」という名称となった。その後、大正年間に村人がその信仰と保存のため、像高約95㎝の薬師如来として体部分を復元し、信仰されているが、その際に仁王門ともに薬師堂をも再建された。 桧材の一木造りで彩色と金箔は落ちているが、面相は穏やかで、やさしさを感じる仏像である。この仏頭の由来については詳らかでないが、欲賀町の浄光寺に伝わる薬師如来縁起には「欲賀寺は法相天台兼学の浄刹であったが、建武元年九月二十六日重ねて応仁元年十月二十四日の兵火にあって伽藍が焼失し、持統天皇作の薬師仏を火中より取り出し小堂を建立して安置した」と記されている。
名称 | 木造仏頭(もくぞうぶっとう) |
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文化財の種類 | 国指定重要文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | M42年4月5日 |
大きさ/時代 | H95cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市三宅町(薬師堂) |
武道天神社の境内の北西に建つ鉄筋コンクリート造りの収蔵庫の中、漆黒の蓮華の台座にゆったりと安置された仏像である。左手のひじをまげ、親指と中指をまるめ、右手は手のひらを上にして、組んだ右膝の上にごく自然においている。摂関政治の栄えた頃で、寄木造の技が完成した時代に作られたものだけあって、そのふくよかなお顔には、末法の世に深い慈悲をこめた立派な調和がみられ、やさしくうるわしいお姿からは何とも言えないおごそかさがにじみ出ている。 昭和40年の大修理によって、像の背中の内側から銘が発見され、この像が、長元2年(1029)から長暦2年(1038)までの間に完成されたものであることが確認された。尚、その時、後の時代につけた漆や金箔をおとし、ほぼ平安時代の姿にもどしたので、本来の優雅なお顔や衣の模様がよくわかるようになった。
名称 | 木造聖観音坐像(もくぞうせいかんのんざぞう) |
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文化財の種類 | 国指定重要文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | M42年4月5日 |
大きさ/時代 | H92cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市矢島町(武道天神社) |
東門院本堂右脇の護摩堂に安置されている彩色像で、左手に羂索を掲げ、右手に剣を持つ。火焔光を背に岩座上で趺座し、忿怒相を示し、口の両辺から牙が上下に生じている。桧材の寄木造りで、臂釧(上腕部の飾り)と腕釧(手首の飾り)も共に木から彫りだしており、両肩の盛り上がりと膝の張り出しがバランス良く安定感のある構成である。 また、両膝の裳の衣文線は翻波の手法で自由な流れがあり、条帛(肩口から脇腹に斜めにかかる布)の折り返し部分の的確な表現とともに細部まで入念で繊細な藤原様式を伝えており、全国的にも数少ない半丈六の大きさを持った不動明王として知られている。
名称 | 木造不動明王坐像(もくぞうふどうみょうおうざぞう) |
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文化財の種類 | 国指定重要文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | M42年4月5日 |
大きさ/時代 | H142cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市守山二丁目(東門院) |
大日堂の内陣中央に安置された丈六の仏像である。鎌倉時代初頭の作で、内刳りの寄木造りである。全体にふくよかな様子を表現し、両手は大日印を結ぶ。後世の補修も元の像を著しく損なわずになされており、県下でも保存状態の良い最大の大日仏である。右手に安置された薬師如来(市指定文化財)と合わせてこの小さな堂に保存されているが、由来は明らかではない。
名称 | 木造大日如来像(もくぞうだいにちにょらいぞう) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | S55年4月18日 |
大きさ/時代 | H180cm 鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市小浜町(大日堂) |
本堂内陣の正面に向かって右二躯目の仏像がこれである。向かって左側の如来形坐像は、現在は薬師如来の形に復元されているが、両手が造顕当初ではないと判断され、如来形とされている。両肩に衣をかけた通肩の衲衣を付け、結跏趺座する半丈六の像である。両手先は法界定印を結んでいる。鼻や唇を小さくまとめ、伏目がちの穏やかな表情や浅く刻まれ、形式化した衣文線など平安時代末期の特徴が顕著に表現されている。 右側の菩薩形立像も肘から先が後補のため、尊名が不明であるが、丸みの強い顔、切れ長の目や胸の肉付けなど如来坐像と作風が一致する。おそらく如来像の脇士仏として、同じ仏師により製作されたものと考えられる。
名称 | 木造如来形坐像・木造菩薩形立像 (もくぞうぼさつぎょうりゅうぞう)(もくぞうにょらいぎょうざぞう) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | S57年3月31日 |
大きさ/時代 | (両方とも)H180cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市立入町110(東福寺) |
内陣の左端に安置された仏像である。両肩から先が後補であるため尊名が明らかでない。材は桧を用いている。頭体を通して像の根幹部は正中線で左右二材矧とし、更に割首として内刳りを施す。高く結いあげた宝髪、最上部を花冠とした花冠台や毛筋彫の地髪部の丁寧な造り、腰裳の折返し部の形態や衣文線の性質等からみて、12世紀の造像と推測される。 両貌や肉取りには明らかに定期線を踏襲するところが窺えるが、総体的にみて形式化した感じも窺える。中央左側の薬師像の脇士像として製作された可能性が高いと考えられる。
名称 | 木造菩薩形立像(もくぞうぼさつぎょうりゅうぞう) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | S57年3月31日 |
大きさ/時代 | H182cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市立入町110(東福寺) |
地蔵菩薩坐像は、幸津川東光寺境内にある地蔵堂に安置されていた。平成16年度の市の予備調査時点では、全身が白い胡粉(ごふん)で覆われ、一部が欠損するなど相当な傷みがあった。地域では、収蔵している地蔵堂も修理が必要であり、地蔵像も傷みがあるため、滋賀県教育委員会の美術工芸品実態調査を待って、堂及び像の修理を行う計画となった。県実態調査の結果、像は平安時代の作で、半丈六という大きな仏像であり、傷みはあるものの、造像当初の構造を残しているという成果を得た。傷みがあり、地蔵堂も理を要することから、平成18年度、修理委員会が設置され、地蔵菩薩像は3月から8月までの間、楽浪文化財研究所で修理が行われた。修理は造像時の状態に復原修理し、全身に塗られていた胡粉と彩色を外し、破損部を補うものである。平成18年8月20日に堂および像の竣工記念式が行われ、新しい堂に保管されている。 平安時代末の造像当時の像容に復原修理した結果、市内最大の地蔵菩薩像であることがわかった。
名称 | 木造地蔵菩薩坐像(もくぞうじぞうぼさつざぞう) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | H24年3月19日 |
大きさ/時代 | H138cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市幸津川町1189(幸津川地蔵堂) |
東門院境内本堂に向かって右側に護摩堂がある。堂内には木造不動明王坐像とその両側に童子像がある。向かって右側が矜羯羅童子である。 いずれも不動明王に従った童子で眷属である八大童子の内の二童子である。ふつう、不動明王を中心にこの二童子とともに三尊の形式で安置される湯合が多い。矜羯羅童子は頭に二つの髷を結い、穏やかな童顔は随順の意味を物語り、左肘をまげ、掌を上にして蓮の華を、右肘は垂れて、その華の茎を持つかわいらしい表現である。
名称 | 木造矜羯羅童子立像 (もくぞうこんがらどうじりゅうぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | S46年6月28日 |
大きさ/時代 | H105cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市守山二丁目(東門院) |
東門院境内本堂に向かって右側に護摩堂がある。堂内には木造不動明王坐像とその両側に童子像がある。向かって右側が矜羯羅童子である。 いずれも不動明王に従った童子で眷属である八大童子の内の二童子である。ふつう、不動明王を中心にこの二童子とともに三尊の形式で安置される湯合が多い。 左側の制托伽童子は胸に天衣をまとい、右手に金剛棒、左手に独鈷を持ち立っている。大きく見開いた目、きりりと結んだ口に表現されている。
名称 | 木造制叱迦童子立像 (もくぞうせいたかどうじりゅうぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | S46年6月28日 |
大きさ/時代 | H105cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市守山二丁目(東門院) |
中山道沿い守山町にある大光寺所蔵の釈迦仏立像は、鋳造品で奈良時代の作である。釈迦が誕生して、「天上天下唯我独尊」と言った様子を表した立像である。
名称 | 銅造誕生釈迦仏立像(どうつくりたんじょうしゃかぶつりゅうぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | S56年4月24日 |
大きさ/時代 | H13.4cm 奈良時代 |
文化財の所在地 | 守山市守山一丁目(大光寺) |
堂内陣の正面壇上に安置されている二躯の仏像の内、向かって右側が薬師如来である。 半丈六の坐像で桧材の内刳りの寄木造りである。右手は掌を前に向け、施無畏印を結び、左手には薬壷を持つ。ふくよかな顔と身体、なで肩、裸髪などに平安時代の作風を伝えている。薬師如来は衆生の病苦を救う仏で、その端正な容貌のうちに、大きな慈愛の心をうかがうことができる。 本像は大日堂の客仏として安置されたもので、近くの薬師堂を廃した際に、当堂に遷仏したと伝えられている。また、大日堂の内陣中央左側には丈六の仏像、木造大日如来坐像(県指定)が安置されている。
名称 | 木造薬師如来坐像(もくぞうやくしにょらいざぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | S55年4月18日 |
大きさ/時代 | H149cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市小浜町(大日堂) |
帆柱観音で知られる慈眼寺にはかつて本堂北側に薬師堂があり、そこには三躯の仏像があり、その中央に安置されていたのが薬師如来である。像は寄木造りで全体の姿は多くの人をもれなく済度するやさしさがあり、平安時代の作と考えられる。また、袖衣は両肩にかかり円満相で、施無畏印を結ぶ手はやわらかさが感じられ、螺髪は青瑠璃色となっていて他は金色に輝いていた。しかし、平成19~20年度にかけて薬師如来の修理が施される中で造立当時の姿に戻された。平成19年の修理により、これまでに少なくとも鎌倉時代、室町時代、江戸時代の3度の修理を経てきたことや、表面の漆箔を除去したところ、造像当初のままの色彩が鮮やかな状態で残されていたことが分かった。この彩色は700年以上にわたり漆箔により覆われていたが、今回の修理により、木造彫刻としても優れた本来の像の姿がよみがえった。
名称 | 木造薬師如来坐像(もくぞうやくしにょらいざぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | S56年4月24日 |
大きさ/時代 | H144cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市吉身一丁目(慈眼寺) |
薬師如来の脇侍として菩薩立像が両側に安置されている。向かって右側が日光菩薩で、金色に輝く上半身は左肩から斜めに条吊をつけ、天衣を肩、腕にからませて下半身には袖をまとう。宝髪を結う頭上に宝冠を戴き、手首は腕釧で身を飾り、印を結んだ手には持物としての蓮華を持つ。寄木造りで鎌倉時代の作と考えられていたが、H20年の修理で江戸中期~後期のものと判明した。
名称 | 木造日光菩薩立像(もくぞうにっこうぼさつりゅうぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | S56年4月24日 |
大きさ/時代 | H251cm 鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市吉身一丁目(慈眼寺) |
薬師如来の脇侍として菩薩立像が両側に安置されている。左側に安置された月光菩薩は本尊である薬師如来に法を学び、最高の位に達したもので、如来の性格の一分身とされている。上半身は日光菩薩と同様で、下半身には据をまとっている。宝髪を結う頭上には宝冠を戴き、手首には腕釧を飾り、印を結ぶ手には蓮華を持つ。寄木造りで鎌倉時代の作と考えられていたが、H20年の修理で江戸初期のものと判明した。
名称 | 木造月光菩薩立像(もくぞうがっこうぼさつりゅうぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | S56年4月24日 |
大きさ/時代 | H251cm 鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市吉身一丁目(慈眼寺) |
本堂内陣に向かって左側に安置された仏像が聖観音立像である。全高101.8cmで内刳りなしの一木造りである。肘より先と両端先は別矧ぎである。垂髻を結い、宝冠を戴き、顔は白毫相をなし、耳には鬢髪を巻く。条帛をかけ、両肩にかかる衣文は遊離部を欠いている。二段折り返しの裳をつけ、肘より先が後補であるため、本形の形相はわからないが、現在は両手を屈臂して両掌を相対させて左手に未敷蓮華を持っている。両肘の後補をはじめ、顔、衣文そして玉眼の嵌入、厚くかかっている古色漆なども後世の修理によるものであるが、垂髻、宝冠、鬢髪などから平安時代の作をうかがわせる。 右側に安置された阿弥陀如来立像は、やや面長の顔だちで体奥に豊かさが見られる。頭には小粒の螺髪に高い肉髻を結び、髪際を地髪が盛り上がって肉髻朱を嵌入し、自毫相を表している。通肩の大衣を身にまとい両袖も軽く体側に垂れる姿は穏やかである。台座と光背は後補で、13世紀末から14世紀初頭の作と考えられる。
名称 | 木造聖観音菩薩立像(もくぞうしょうかんのんりゅうぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | S62年3月31日 |
大きさ/時代 | H100cm |
文化財の所在地 | 守山市服部町1129(極楽寺) |
本堂内陣に向かって右側に安置された阿弥陀如来立像は、やや面長の顔だちで体奥に豊かさが見られる。頭には小粒の螺髪に高い肉髻を結び、髪際を地髪が盛り上がって肉髻朱を嵌入し、自毫相を表している。通肩の大衣を身にまとい両袖も軽く体側に垂れる姿は穏やかである。台座と光背は後補で、13世紀末から14世紀初頭の作と考えられる。
名称 | 木造阿弥陀如来立像(もくぞうあみだにょらいりゅうぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | S62年3月31日 |
大きさ/時代 | H82.8cm 鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市服部町1129(極楽寺) |
構造は寄木造りで内ぐり、現状素地で彫眼の十一面観音立像である。形状は頭部に断面四弁花形の垂髻を結い、上部で二重に結ぶ。髻頂に仏面をおき、下部に四面の頂上仏を配し、天冠台上の前、側面に六面を配す。本面の天冠台上地髪部の正面に化仏立像を表す。概要として、頭、体部を前後矧ぎとし、差首とする技法や腹前の腰裳折り返し部のやや複雑な処理、また、少年を思はせる面貌などから、鎌倉時代前期の作と考えられる。頭上面がほぼ当初のままの姿を伝えている点は極めて貴重である。
名称 | 木造十一面観音立像(もくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | H9年4月1日 |
大きさ/時代 | H108cm 鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市幸津川町1189(東光寺) |
少林寺で所蔵される木造一休和尚坐像は、形状として老貌。頭髪、髭を伸ばした正面向きである。下衣の上に法衣、袈裟を纏う。両手は屈臂し、各膝上で掌を伏せ、左手作拳、右手警策を執る。法被を懸けた椅子の上に座す。檜材の寄木造で彩色仕上げである。頭は首から上を別材で仕上げ、襟に差す。首内面には墨書があり、『大仏師 宇兵衛 心傳庵 淵首座』とある。 伝来は開山一休宗純の肖像と伝えられる像であり、本像は等身大の彫刻で、京都酬恩庵、真珠庵の木像に相通じ、意匠もこれらに類似する。 保存状態は矧目が緩み、部材が脱落するなど、決して良好ではないが、造形が総じて単調になり、相貌や体貌の表現などに形式化したところがある。少林寺に伝える『少林寺法度』には大永五年(1525)までには一休の彫刻が安置されていたことが見られることから、作像の時代をこの頃に求めることができると考えられる。従って、酬恩庵、真珠庵の木造よりはやや時代が下るが、国内では3カ所にしかない貴重な一休像である。
名称 | 木造一休和尚坐像(もくぞういっきゅうおしょうざぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | H12年5月12日 |
大きさ/時代 | H185cm 室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市矢島町1127(少林寺) |
材質はカヤであるが、右腕、左肘先が欠け、顔面、右胸から腹前面、軸部にかけて朽損が著しい。像は、顔面の彫りが浅いことなどから、木心(もくしん)乾漆像(かんしつぞう)であった可能性が高いが、本像が破損していることもあって、尊像(そんぞう)名が難しいが奈良時代の像を奉安するものとして吉祥天をあてるのが妥当だと判断される。この神社に奉安される経緯や由来は不詳だが、奈良時代に近江で行われた吉祥(きっしょう)悔過会(けかえ)のために造像されたものと考えられる。
名称 | 木造天部形立像(もくぞうてんぶぎょうりゅうぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | H16年11月25日 |
大きさ/時代 | H72.5cm (57.2cm) 奈良時代 |
文化財の所在地 | 守山市笠原町938(蜊江神社)(現在は琵琶湖文化館で保管) |
顔を正面に向け、左腕を屈して前面に差し、右腕は欠損している。また、後下部の朽損が著しいため、詳細は不明。頭部は髻(もとどり)を結い、地髪部は束状に五区画を表し、面相部は眉、目、鼻、口唇がわずかに観察できる。 木心を前面左に外した竪木一材より木取りするが、両手及び膝前材は別材を寄せていたかと思われる。
名称 | 木造女神坐像(もくぞうめがみざぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | H16年11月25日 |
大きさ/時代 | H749.2cm 奈良時代 |
文化財の所在地 | 守山市笠原町938(蜊江神社)(現在は琵琶湖文化館で保管) |
観音像の頭部や如来の光背に小さな仏像がついているものを化仏と言う。材質はヒノキを使用し、結跏趺坐(けっかふざ)して膝張を充分に取り、ゆったりした雰囲気を持つ像である。一見懸仏(かけほとけ)の中尊(ちゅうそん)かとも思えるが平面に見る丸みは、おそらく光背(こうはい)につけるための工夫と考えられることから化仏とするのが妥当である。とするなら、法量から考えて半丈六(はんじょうろく)ないしは周丈六(しゅうじょうろく)像の光背の化仏となろう。平安時代後期の制作になる優品である。
名称 | 木造化仏(もくぞうけぶつ) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | H16年11月25日 |
大きさ/時代 | H27.6cm 平安時代 |
文化財の所在地 | 守山市笠原町938(蜊江神社)(現在は琵琶湖文化館で保管) |
右側の阿形(あぎょう)は、後肢を曲げ、前肢を前について顔を左に向けている。下顎(したあご)を除いて欠失しているが、開口する阿形の狛犬と考えられる。また、鬣(たてがみ)は体部に密着し、その先端を巻き毛に表している。胸を強く前面に張り、口内には歯、舌を彫出し、特に舌の彫技は写実的である。下半身には男根及び睾丸を表している。 左側の吽形(うんぎょう)は、後肢を曲げ、両前肢を伸ばして顔を右側に振っている。 面相部は大きく欠失しており、右側面も欠失している。欠失面の観察から鋸(のこぎり)で断たれたことが確認でき、当初からの仕様と考えられる。角跡はないが、男根、睾丸を表しています。 前肢を突っ張る形勢や鬣が体部に密着するなど、体部の引き締まった造形から制作年代は鎌倉時代前半と思われる。
名称 | 木造狛犬(一対)(もくぞうこまいぬ) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | H16年11月25日 |
大きさ/時代 | H46cm ・ 45.1cm 鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市笠原町938(蜊江神社)(現在は琵琶湖文化館で保管) |
後肢を曲げて、前肢を前につき顔をやや右に向け、鬣(たてがみ)は体部に密着している。材質はヒノキで、木心を右後頭部においた竪一材から木取りし、上顎部のみ割り放ち、口内を彫成している。耳部には孔が穿たれ、別材で両耳を矧(は)いでいたものと見られる。朽損のため詳細は不明であるが、制作は鎌倉時代前期のものと思われる。同神社の他の狛犬とも法量が近似し、制作年代も大差ないと考えられるが、様式的には本像の方がやや古いスタイルを残している。
名称 | 木造狛犬(もくぞうこまいぬ) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 彫刻 |
文化財の指定日 | H16年11月25日 |
大きさ/時代 | H43cm 鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市笠原町938(蜊江神社)(現在は琵琶湖文化館で保管) |
区分 | 名称 | 年代 | 指定年月日 | 所有者・管理者 |
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県 | 鰐 口 | 鎌倉 | 昭和56年4月24日 | 蜊江神社総代 |
県 | 銅水瓶 | 室町 | 平成20年7月23日 | 己爾乃神社 |
県 | 銅 鐘 | 室町 | 平成21年11月25日 | 下新川神社 |
市 | 銅製経筒 | 室町 | 昭和49年8月26日 | 己爾乃神社 |
鰐口とは社殿や仏堂の軒先に吊るして、前に下げられた綱を振って打ち鳴らす仏具のことで、空洞の円盤状の金属品である。動物の鰐の口に似ていることからこの名がついた。
神社の本地堂の地蔵院に掛けられていたこの鰐口は大型で直径30cmを越える。ふくらみのある鼓面を合わせていて、身幅は厚い。側面の中程から縁をつくって唇状とし、左右の上方に耳を作って鉄製の吊金具をつける。表裏とも同じ文様で、鼓面には二条圏縁、銘帯、外区、内区、橦座区の4区に分けられ、橦座区には複弁八葉蓮華文を鋳出している。 銘帯には「吉祥寺江州播磨田」「永仁七年亥巳二月廿日」の文字があることから吉祥寺に伝わったものであることが窺われる。名称 | 鰐口(わにぐち) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 工芸品 |
文化財の指定日 | S56年4月24日 |
大きさ/時代 | 面径42cm/鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市笠原町938(蜊江神社)(現在は琵琶湖文化館で保管) |
水瓶は飲用か手洗い用の水を注ぐ容器である。大きさからすれば飲用に用いられたものと思われる。鋳造製品で志貴形を呈し、口に蓋、口縁部から胴部にかけて把手が付けられ、これと蓋とは蝶番で結ばれている。注口は胴部より長くのび、高さとほぼ同じくらいまでになる。胴部には銘文があり、「寛正六年(1465)戌年秋日 己爾乃御前 別当保流山 玉林寺汁物」と書かれていて、神仏習合時の神宮寺であった玉林寺のものであったと考えられる。
名称 | 銅水瓶(どうすいびょう) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 工芸品 |
文化財の指定日 | H20年7月23日 |
大きさ/時代 | H25cm 銅部径14.1cm/室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市洲本町大曲(己爾乃神社)(現在は琵琶湖文化館で保管) |
和韓混淆鐘とは、日本の鐘(和鐘)と朝鮮半島の鐘(朝鮮鐘)の双方の様式を持った鐘のことで、九州や四国地方を中心に5例が発見されている。下新川神社の鐘は青銅製で、高さ40.6cm、直径23.9cm、重さ11.2kgの小型の鐘でその大きさから「喚鐘」に分類される。鐘の側面には「江洲野洲郡幸津川荘/地主下新川神社明之神鐘也/奉寄進東般若院/施主/道源/道金/浄圓/應永二十六年霜月」の8行の銘文が刻まれている。鋳物師(製作者)の名前は見当たらないが、銘から室町時代の応永26(1419)年に道源、道金、浄圓の三人の僧侶が、下新川神社にこの鐘を寄進したことがわかる。これまでの5例の中では応仁3(1469)年の記年銘がある長崎県対馬.厳原町所有の鐘が最も古かったのだが、応永26年の銘が刻まれた下新川神社の鐘は、それを半世紀遡る現存最古の和韓混淆鐘となった。
名称 | 銅鐘(どうしょう) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 工芸品 |
文化財の指定日 | H21年11月25日 |
大きさ/時代 | H40.6cm/室町時代前期 |
文化財の所在地 | 守山市幸津川町1356(下新川神社) |
洲本町大曲に鎮座する己爾乃神社は式内社で、境内地から「嘉吉二年正月十一日」と刻まれた銘のある経筒が発見された。経筒は本来、経塚に埋納するもので、仏教を後世に伝えるため、法華経などを入れて埋める容器である。比叡山から発したと言われ、己爾乃神社神宮寺での供養の際に埋められたものであろうか。嘉吉2年は1442年で室町時代中頃である。
名称 | 銅製経筒(どうせいきょうづつ) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 工芸品 |
文化財の指定日 | S49年8月26日 |
大きさ/時代 | H25.3cm 口径11.2cm/室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市洲本町大曲(己爾乃神社) |
区分 | 名称 | 年代 | 指定年月日 | 所有者・管理者 |
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県 | 紙本墨書称讃浄土仏摂受経 | 奈良 | 平成11年3月31日 | 蓮生寺 |
県 | 紙本墨書織田信長朱印状 | 安土桃山 | 平成10年6月19日 | 善立寺 |
市 | 紙本墨書大般若波羅蜜多経 | 南北朝 | 昭和49年8月26日 | 円福寺 |
市 | 紙本墨書少林寺法度 | 南北朝 | 昭和50年10月23日 | 少林寺 |
市 | 紙本墨書霊山和尚法度 | 南北朝 | 昭和50年10月23日 | 少林寺 |
市 | 紙本墨書大般若経理趣分 | 鎌倉 | 昭和52年4月30日 | 蜊江神社 |
市 | 紙本墨書宗源宣旨 | 室町 | 平成14年9月17日 | 下新川神社 |
「称讃浄土経」は、阿弥陀経の異訳本で、遣唐使らにより日本にもたらされて以来、何回も書写されてきた経本である。この蓮生寺に伝わる「称讃浄土経」は奥書によると、中将姫が奈良県当麻寺で天平宝字7年に一千巻書写した中の一巻であるとされる。蓮生寺への由来は明らかではないが、奈良時代の古い記録は守山市でも唯一である。
名称 | 紙本墨書称讃浄土仏摂受経 (しほんぼくしょしょうさんじょうどぶつしょうじゅきょう) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 書跡 |
文化財の指定日 | H11年3月31日 |
かたち/時代 | 1巻/奈良時代 |
文化財の所在地 | 守山市三宅町1029(蓮生寺) |
信長との戦いと朱印状による楽市楽座令 元亀2年(1571年)8月佐久間信盛を将とした織田信長軍が金森を囲んだ。金森は三宅の蓮生寺を支城とし、応援の小南衆を金森と三宅の間に配置して抵抗、8日間の攻防の後、和睦した。信長軍は、この戦いの後、比叡山の焼き討ちを行った。 元亀3年7月、信長軍が再び金森に攻めてきた。実はこのとき既に、湖南地域の一向衆徒は「三宅・金森両城と内通しない」という起請文の提出を強制されていた。そのため、援護のない金森の一向衆徒は敗れ、寺内町は廃墟となった。 信長の進攻に敗れた金森寺内町だが、佐久間信盛が守山美濃屋小宮山兵介あてに7月18日付けで文書を送り、「守山年寄衆が金森復興に力を貸すように、そのためには楽市楽座とするように」と命じた。さらに9月、信長から「楽市楽座令」の朱印状が出された。 楽市楽座とは 既存の独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ商工業者(市座、問屋など)を排除して自由取引市場をつくり、座を解散させるものである。中世の経済的利益は座・問丸・株仲間によって独占され既得権化していたが、戦国大名はこれを排除して絶対的な領主権の確立を目指すとともに、税の減免を通して経済の活性化を図った。
名称 | 紙本墨書織田信長朱印状(しほんぼくしょおだのぶながしゅいんじょう) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 書跡 |
文化財の指定日 | H10年6月19日 |
時代 | 安土桃山時代 |
文化財の所在地 | 守山市金森町753(善立寺) |
立田町の南端近くにある小さなお堂が円福寺である。この本堂には木版の般若経が六百巻伝わっていて、市指定となっている。十巻ずつ納箱され、さらにその十箱ずつが櫃に納められている。経には奥書があり、文安元年(1444)に勧進僧宗祐と壇越浄観が野洲郡富田庄新宮社の御宝殿に奉納したと記されている。円福寺はこの新宮社の神宮寺で、現在も境内には、新宮社の神輿蔵がありその面影をとどめている。そして今なお、この大般若経を用いて転読が続けられている。転読とは経文を略して読むことで、六百巻の経文の要点だけを読請することも全巻の読請に値すると考えられた。
名称 | 紙本墨書大般若波羅蜜多経(しほんぼくしょだいはんにゃはらみったきょう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 書跡 |
文化財の指定日 | S49年8月26日 |
数量/時代 | 600巻/南北朝時代 |
文化財の所在地 | 守山市立田町(円福寺) |
少林寺を興した桐嶽招鳳が大永5年(1525)に寺の規範と由緒などを表したもので、寺の守護を念じ、したためられている。現在のものはこの法度を写したもので、室町時代中期頃のものと考えられる。
名称 | 紙本墨書少林寺法度(しほんぼくしょしょうりんじはっと) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 書跡 |
文化財の指定日 | S50年10月23日 |
大きさ/時代 | 26.9cm×41.6cm/南北朝時代 |
文化財の所在地 | 守山市矢島町1227(少林寺) |
霊山和尚の定めた法度の写本が少林寺に伝えられている。霊山和尚は大徳寺開山の宗峰妙超の弟子である。この法度は應安元年(1368)に定められた法度とともに当時の大徳寺門弟の氏名を列記し、また荘園などを詳細に記録しながら大徳寺山内において遵守されるべき条々を収録しているなど貴重な資料である。これが少林寺に将来されたことは少林寺が禅刹としての規範を整えようとした経緯をよく示している。この法度料紙は鎌倉時代のもので、紙背には古い姿の暦である具注暦が記されている。
名称 | 紙本墨書霊山和尚法度(しほんぼくしょれいざんおしょうはっと) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 書跡 |
文化財の指定日 | S50年10月23日 |
大きさ/時代 | 天地30.4cm×19紙/南北朝時代 |
文化財の所在地 | 守山市矢島町1227(少林寺) |
笠原町の北背の野洲川堤防下に鎮座する蜘江神社は、今も神仏習合の跡を残し、広い境内を持つ神社である。境内がこの神仏習合の跡を残すことから市指定であり、大般若経一巻も市指定である。鎌倉時代の作である経本は書体、紙質から鎌倉時代と考えられている。 当神社へ所威されるまでの経緯は不明だが、現在も盛夏に境内で大般若経の転読が行われ、古い伝統を受け継いでいることから、かなり古い時期に伝わり氏子の手で大切に継承されてきたものと考えられる。
名称 | 紙本墨書大般若経理趣分(しほんぼくしょだいはんにゃきょうりしゅぶん) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 書跡 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
大きさ/時代 | 天地26.2cm×15紙/鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市笠原町938(蜊江神社) |
室町後期の延徳2年(1490年)に、京都の吉田神社の神職の吉田家(卜部氏)から発行された文書である。宗源宣旨とは、吉田家が「神祗管領勾当長上」と自称して、私的に、天皇の出す「宣旨」の形式をとって全国の神社に対して、神号(大明神など)、社号、神階(祭神の位階)等を与えるものである。江戸時代には幕府の公認の下で、さらに大々的に発行されるが、当社のものは吉田兼倶が出したごく初期のもので、現存する宗源宣旨のうちでも、最古のうちのひとつである。 ねずみ色の宿紙(すくし)に書かれ、異様な署名の形式や特殊な押印の形も、これ以後の多くの宗源宣旨に見られる様式の典型である。その内容は、近江国「幸津川庄」の「幸津川地主神」に対して、大明神の神号を授けることが記載されている。 吉田神道のみならず、中世神社史・中世思想史の研究にとって、非常に貴重な文化財である。
名称 | 紙本墨書宗源宣旨(しほんぼくしょそうげんせんじ) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 書跡 |
文化財の指定日 | H14年9月17日 |
大きさ/時代 | 33cm×44.5cm/室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市幸津川町1356(下新川神社) |
区分 | 名称 | 年代 | 指定年月日 | 所有者・管理者 |
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市 | 木製高札 | 江戸 | 昭和52年4月30日 | 東門院 |
市 | 鬼瓦 | 室町 | 昭和56年4月24日 | 慈眼寺 |
市 | 東門院山門葺き平瓦 | 室町 | 昭和52年4月30日 | 東門院 |
市 | 木製下新川神社神階篇額 | 室町 | 平成14年9月17日 | 下新川神社 |
市 | 木製下新川神社棟札 | 室町 | 平成14年9月17日 | 下新川神社 |
高札は中世の終わり頃から盛んになり、宿場や町の辻に立てられた。当時にあっては大衆への情報提供に有効な手段であった。江戸時代には正徳5年(1715)に五街道に高札が立てられるようになるが、中山道守山宿にも市神社付近に高札場が設けられた。東門院に残る7点の高札は桧材で幅6尺の規格である。書かれている内容は切支丹、毒物、火付、人馬駄賃唐物抜荷などの項目が記されており、奉行が商業、経済に関する、いわば行政指導から私生活の細部にまでおよぶ取締りと干渉を行っていたことがうかがわれる。この制度は明治3年まで存続していた。7点の高札は昭和61年の火災で燃え、1点だけが内容を読めるものとなった。
名称 | 木製高札(もくせいこうさつ) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 歴史資料 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
時代 | 江戸時代 |
文化財の所在地 | 守山市守山二丁目(東門院) |
薬師三尊が安置されている薬師堂に文禄三年(1594)銘のある鬼瓦が保存されている。この鬼瓦は慈眼寺の屋根飾りとして用いられていたものだが、戦国時代の相次ぐ兵火によるものか、いつのころか屋根から下ろされて現在まで保存されてきたものである。桃山時代末期の銘のある瓦が保存されているのは市内でも珍しい。
名称 | 鬼瓦(おにがわら) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 歴史資料 |
文化財の指定日 | S56年4月24日 |
数量/時代 | 2点/桃山時代 |
文化財の所在地 | 守山市吉身一丁目(慈眼寺) |
中山道に面する山門は仁王門とも呼ばれ、幅三間、奥行き二間の薬医門の形式の門である。いつの頃か不明だが、山門の修理の際に銘のある瓦が発見され、現在に伝わっている。縦23cm、横17cmの大きさで、背面に応永3年(1396)の文字が刻まれている。瓦の大きさから棟の上に積まれた熨斗瓦の可能性が高い。 山門がこの応永前後からあったことを示す資料であるが、現在の門は後世の修理が激しく、当初の様子を復元できなくなっている。
名称 | 東門院山門葺き平瓦(とうもんいんさんもんふきひらかわら) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 歴史資料 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
大きさ/時代 | 上辺20.5cm 下辺18.7cm 長さ26.5cm/室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市守山二丁目1(東門院) |
正面に行書で「正一位」の文字を彫りつけた木製の篇額である。裏面には、左右の端に一行ずつ、「幸津河新河大明神」「延徳二年庚戌三月十八日」と陰刻してある。本殿(もしくは拝殿)の正面に掛けられた額であろう。宗源宣旨と同じ日付が刻まれているところから、「正一位」の神階も同時に吉田家から授けられたことが知られる。歴史的な資料として、両者がセットになってこそ大きな意味を持つのであり、本神社のように両者が揃ったものは稀である。
名称 | 木製下新川神社神階篇額(もくせいしんかいへんがく) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 歴史資料 |
文化財の指定日 | H14年9月17日 |
大きさ/時代 | 82cm×86cm/室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市幸津川町1356(下新川神社) |
幸津川神社(現下新川神社)の社殿が應永二十九年(1422年)十一月二十三日に建立された時の棟札である。この棟札銘から重要なことの一つは、欠文があるものの造営の主体が棟札の筆者の阿闍梨宗知ら四人の僧侶であり、乗蓮坊なるものが当社の経済に関わっていたこと、「社頭御造營申預所」も東般若院の道源らの僧であったことから知られ、当時神仏習合の僧侶主体の神社として運営されていたことを示している。また、大工棟梁の名(大工太夫二郎国房)も記載されている。神社建築は全国的にみても、室町時代以前の現存する遺構は、寺院建築に較べて非常に少なく、本棟札は室町時代の神社建築の存在をうかがわせるものとして貴重である。
名称 | 木製下新川神社棟札(もくせいしもにいかわじんじゃむなふだ) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 歴史資料 |
文化財の指定日 | H14年9月17日 |
大きさ/時代 | 96cm/室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市幸津川町1356(下新川神社) |
区分 | 名称 | 年代 | 指定年月日 | 所有者・管理者 |
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市 | 単弁蓮華文周縁鋸歯文鐙瓦 | 白鳳 | 昭和49年8月26日 | 埋蔵文化財センター |
市 | 単弁蓮華文周縁鋸歯文鐙瓦 | 白鳳 | 昭和49年8月26日 | 個人 |
市 | 忍冬唐草文宇瓦 | 白鳳 | 昭和49年8月26日 | 個人 |
単弁蓮華文周縁鋸歯文鐙瓦 (埋蔵文化財センター所蔵) | 単弁蓮華文周縁鋸歯文鐙瓦 (個人所有) | 忍冬唐草文宇瓦(個人所有) |
吉身町宇野上(馬場)、現在の吉身3丁目一帯では古くから布目瓦が出土することが知られていた。この瓦は軒先瓦で蓮華を上から観た状態でデザインされたもので、中央には中房、周囲に花弁を表している。鐙瓦は直径18cmで8枚の花弁を配している。宇瓦は忍冬唐草文をデザインしたもので、仏教にかかる草花を表したものといえる。いずれも益須寺跡周辺で出土したもので、この一帯に同廃寺があったことを物語る資料である。年代としては7世紀末頃と考えられる。
名称 | 単弁蓮華文周縁鋸歯文鐙瓦 (もくぞうせんじゅかんのんりゅうぞう) |
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名称 | 単弁蓮華文周縁鋸歯文鐙瓦 (もくぞうせんじゅかんのんりゅうぞう) |
名称 | 忍冬唐草文宇瓦 (もくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう) |
文化財の種類 | 市指定重要文化財 考古資料 |
文化財の指定日 | S49年8月26日 |
大きさ/時代 | 鐙瓦 径22㎝ 宇瓦 長さ20cm/白鳳時代 |
文化財の所在地 | 守山市服部町2250(埋蔵文化財センター) |
文化財の所在地 | 守山市守山二丁目(個人) |
区分 | 名称 | 年代 | 指定年月日 | 所有者・管理者 |
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国 | 懸所宝塔(石造) | 鎌倉 | 大正14年4月24日 | 守山市 |
国 | 東門院五重塔(石造) | 鎌倉 | 昭和36年3月23日 | 東門院 |
国 | 最明寺五重塔(石造) | 鎌倉 | 昭和29年3月20日 | 最明寺 |
国 | 勝部神社本殿 | 室町 | 大正2年4月14日 | 勝部神社 |
国 | 小津神社本殿 | 室町 | 明治39年4月14日 | 小津神社 |
国 | 石造宝塔 | 鎌倉 | 昭和23年4月27日 | 福林寺 |
国 | 石造宝塔 | 鎌倉 | 昭和23年4月27日 | 東門院 |
国 | 石造宝篋印塔 | 鎌倉 | 昭和23年4月27日 | 東門院 |
国 | 北川家住宅土蔵 | 江戸/大正頃移築 | 平成27年3月26日 | 北川茂喜 |
県 | 蓮生寺本堂 | 江戸 | 昭和59年3月30日 | 蓮生寺 |
市 | 小津神社三之宮本殿 | 桃山 | 昭和45年5月28日 | 小津神社 |
市 | 石造阿弥陀如来坐像 | 鎌倉 | 昭和45年5月28日 | 西隆寺 |
市 | 石造題目塔 | 室町 | 昭和52年4月30日 | 本像寺 |
市 | 石造題目塔 | 室町 | 昭和52年4月30日 | 本像寺 |
市 | 石造常夜灯 | 江戸 | 平成11年5月10日 | 樹下神社 |
市 | 石造宝篋印塔 | 室町 | 平成12年5月12日 | 守善寺 |
市 | 石造宝篋印塔 | 室町 | 平成12年5月12日 | 称名院 |
市 | 石造板碑 | 鎌倉 | 平成12年5月12日 | 観音寺 |
市 | 石造板碑 | 鎌倉 | 平成12年5月12日 | 西蓮寺 |
金森御坊の境域にあるこの宝塔は、もとは金森の東端にあたる「石ノ戸」にあったもので、安政~文久(1854~1863)年間に現在位置に移築したものといわれている。 方形の石4個を合わせて土台とし、側面の格狭間(こうざま)に彫った相対する形の「くじゃく」の模様は誠にすばらしい。 塔身は、中央部で少しふくらみを帯び、四面には角型が刻み出されている。塔身の上には、円形で2段の石材が積まれ、欄干や柱の表現が正確になされている。その上に、軒をかたどった方形3段の石を積み、さらに屋根石、相輪が積み重ねられてある。 屋根石の高さやそり、相輪の伏鉢、受花のつくり、四方に水煙(すいえん)形をかたどった宝珠等、相輪を完全に残した鎌倉時代の石造宝塔として、我が国の代表的な作品の一つである。
名称 | 懸所宝塔(石造)(かけしょほうとう(せきぞう)) |
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文化財の種類 | 国指定重要文化財 建造物 |
文化財の指定日 | 大正14年4月24日 |
大きさ/時代 | H3.38m/鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市金森町754(金森御坊) |
石 造 五 重 塔 | 石 造 宝 塔 | 石 造 宝 篋 印 塔 |
中山道沿いの山門をくぐり境内に入って、左手庫裏のすぐ前、境内西隅に三基の石塔が集めてある。塔とは、はじめ印度で仏舎利を安置するため造顕せられた卒都婆からはじまるもので、わが国に伝えられてからは伽藍配置からはなれて、後世になると供養塔あるいは墓碑などの意味で石塔がつくられるようになる。 境内にある中央の五重塔は、相輪と第五重軸部は他のものを流用しているらしいが、全体を通じて非常に古風なものである。初重軸は背が高く前後の二つの石で、薬師、阿弥陀と思われる像を彫り出している。この塔は屋根こう配や軒廻りがやるやかなことで、鎌倉時代の特色をよくあらわしている。 右側の宝筐印塔は、相輪上半が失われている。壇上積式基礎の四方を格狭間とし、いずれも開花蓮を浮彫に、上端は複弁の反花とし、よくバランスがとれた端麗な佳品である。ちなみに、宝筐印塔とは、もとは宝笹印陀羅尼経を納めた塔であるが、のちに供養塔墓碑となった。 左側の宝塔は、相輪が後補されたものである。基礎の四面は格狭間を作り、中軸の主要部はまろみを帯び、その上に反りの少ない屋根をのせ、全体としてどっしりとした落ちつきが感じられる。三基とも鎌倉時代の作である。
名称 | 東門院五重塔(石造)(とうもんいんごじゅうのとう(せきぞう)) |
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文化財の種類 | 国指定重要文化財 建造物 |
文化財の指定日 | 昭和36年3月23日 |
大きさ/時代 | H2.86m/鎌倉時代 |
名称 | 石造宝塔(せきぞうほうとう) |
文化財の種類 | 国認定重要美術品 |
文化財の指定日 | 昭和23年4月27日 |
大きさ/時代 | H1.59m/鎌倉時代 |
名称 | 石造宝篋印塔(せきぞうほうぎょういんとう) |
文化財の種類 | 国認定重要美術品 |
文化財の指定日 | 昭和23年4月27日 |
大きさ/時代 | H1.67m 鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市守山二丁目(東門院) |
最明寺は、守山駅から西へ300mのところ、勝部町の入口にある寺院である。この寺の境内、本堂に向って右側に鎌倉時代中期と思われる優雅な石造五重塔がたっている。寺伝では、最明寺入道時頼が建長2年(1250)に寺とともに、建立したと記されている。この塔は、もともとはこの位置になく、境内の東の端、鐘楼脇、本堂の南側と、転々とその位置が移されたということである。 初重軸部は、巾に対して背が高く、四方仏が彫刻されている。小さい塔であるが、屋 根の軒そりもゆるく、勾配も強くなく、厚みもあるので、どっしりと落ちついた感じが する。相輪の上半が欠けているのが惜しまれる。
名称 | 最明寺五重塔(石造)(せきぞうごじゅうとう) |
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文化財の種類 | 国指定重要文化財 建造物 |
文化財の指定日 | S29年3月20日 |
大きさ/時代 | H240cm/鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市勝部一丁目(最明寺) |
この地は、もともと栗太郡物部郷に属していた。「三代実録」その他の資料によると、ご祭神は物部布津神といわれる。 宏大な境内に、三間社流造の本殿がある。この形式は、一棟の社殿の中に、三神殿がおかれ、神明造りの屋根にそりをつけ、その前の流れを長くしたことからこの名称がある。現在の本殿は、棟札によって明応六年(1497)に再建されたことが知られる。正面に一間の拝殿をつける。内陣両側の縁は一段高く、社殿の形やつくりはともに優れていて、手鋏(てばさみ)は精巧である。また、肘木の組み方、欄干の形をみても、何となく力強さがあふれ、室町時代の特色をよく示している。 この境内で毎年壮大な火まつりがおこなわれているのであるが、この建造物が今に残ったのは奇跡に等しいと言えよう。
名称 | 勝部神社本殿(かつべじんじゃほんでん) |
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文化財の種類 | 国指定重要文化財 建造物 |
文化財の指定日 | T2年4月14日 |
建築様式/時代 | 三間社流造桧皮葺き/室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市勝部一丁目(勝部神社) |
浜街道沿いの杉江町の民家の北端に、小津神社の広大な神域があり、深い木立を通して社殿がべっ見される。小津神社本殿は、拝殿に続いて奥にあるので正面の広場からは、煉瓦ののった桧皮葺の屋根が見えるだけであるが、拝殿に歩を進めると、おのずから襟を正さずにはいられない。平地に建築された三間社流造で、向拝と正面の柱は角柱であるが、両妻の柱は円柱となっている。基礎の亀腹から順に上へ目を移すと、向拝の階段、欄干、菱格子の扉、かえるまた、屋根裏の垂木などに優雅な特色が現れている。左右の両妻をみると正面右側の中陣には入り口の扉があるが、左側はそうした扉は見られない。社伝によると、永正2年(1505)に焼失し、大永6年(1526)に改築されたが、ふたたび永禄12年(1569)に再建されたものという。その後、大修理を終えているようであるが、素朴な中に華やかな美しさを秘めているのは、よく室町時代の特徴を示している。
名称 | 小津神社本殿(おづじんじゃほんでん) |
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文化財の種類 | 国指定重要文化財 建造物 |
文化財の指定日 | M39年4月14日 |
建築様式/時代 | 三間社流造桧皮葺き/室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市杉江町495(小津神社) |
本堂に向かって右側の境内に二基の宝塔がある。双方とも類似した形態で、佐々木高綱が経筒を納めた納経塔と伝えられるが、経緯はよくわかっていない。 宝塔の基礎は四面に格狭間を刻み、内部に蓮華を浮かし彫りに表現している。上の塔身は古風で重みが感じられる。軸部の一面にだけ仏像が刻まれているが、かなり風化がすすんでいる。屋根石は緩やかな勾配で、軒反りは小さい。相輪は、右の塔の上半分が欠失している。各部の特徴から鎌倉時代の作品である。
名称 | 石造宝塔 2基(せきぞうほうとう) |
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文化財の種類 | 国認定重要美術品 |
文化財の指定日 | S23年4月27日 |
大きさ/時代 | H2.18m H2.55m/鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市木浜町2011(福林寺) |
北川家住宅土蔵は志那街道に程近い三宅町の集落内に建っている。 当土蔵は大正頃に膳所から移築されたと伝えられている。北川家に保管されている鬼瓦の刻銘には天保8年(1837)の年紀と大津の旧松本村で活躍が確認される瓦師の名が確認できることから、当土蔵は江戸時代末期に大津あるいは膳所近郊で建築され、近代に至り当家に移築されたものと推察される。 建物は、土蔵造の2階建、桁行6メートル規模で、屋根は切妻造の桟瓦葺。小屋組に梁を用いず、成が45センチメートルほどの大断面をもつ母屋桁に化粧裏板を張るという特異な小屋組の架構となっている。 当土蔵は、建築年代や移築の経緯が史料にて一定明らかであり、特徴的な小屋架構をもつ近世土蔵建築の一類型として貴重である。
名称 | 北川家住宅土蔵(きたがわけじゅうたくどぞう) |
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文化財の種類 | 国登録有形文化財 建造物 |
文化財の指定日 | H27年3月26日 |
建築様式/時代 | 土蔵造2階建/江戸時代・大正頃移築 |
文化財の所在地 | 守山市三宅町 |
三宅町の南端に竹薮で囲まれた古刹、蓮生寺がある。元々、信長の元亀の戦いの際に出城としてあった三宅城の中にある。本堂は、棟札によれば元和元年に再建されたもので、低い屋根は本瓦葺きとしている。この本堂は数回の増築や改築を繰り返しており、寛永年間の蛙股も使われている。本堂が相当傷んでいため、昭和60年から修理が行われ、元和年当時を復元する形がとられた。
名称 | 蓮生寺本堂(れんしょうじほんどう) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 建造物 |
文化財の指定日 | S59年3月30日 |
建築様式/時代 | 入母屋造り本瓦葺き/江戸時代 |
文化財の所在地 | 守山市三宅町1029(蓮生寺) |
杉江町小津神社の大鳥居を潜って参道を進むと左側に自治会舘がある。この裏手に三之宮本殿がある。一間社流造りの本殿である。小津神社には大宮、二之宮、三之宮など、数社が祀られていて、三之宮だけが境内地から離れている。規模としては小さいが、正面扉が4枚の引き違いのすかし戸で、軒は繁垂木になっている他、細部にも組物や木鼻など寺院建築の影響が見られる。 昭和19年に解体修理が行われ、それ以前にも幾度かの修理を経ている。向拝の蛙股の線 の張りが力強い点や正面の台輪の両端が左右に突き出る点など、桃山時代の様式の特色を良く残している。また「小津大明神社地境内之鹿絵図」にも現在と同じ場所にこの三之宮本殿が描かれている。
名称 | 小津神社三之宮本殿(おづじんじゃさんのみやほんでん) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 建造物 |
文化財の指定日 | S45年5月28日 |
建築様式/時代 | 一間社流造桧皮葺き/安土桃山時代 |
文化財の所在地 | 守山市杉江町417(小津神社) |
西隆寺本堂の南側にある墓地の一角に安置されている。長年にわたって風雨にさらされていたせいか、上端にひびが入り、不鮮明なところも見受けられる。花崗岩を用いて、全体に丸みのある形で均整のとれた像である。顔は初々しく、温かみがあり、肩から足にかけて衣文が彫られ、両手は印を結んでいる。また、背には光背を表現しており、優れた石造彫刻である。鎌倉時代の作である。
名称 | 石造阿弥陀如来坐像(せきぞうあみだにょらいざぞう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 建造物 |
文化財の指定日 | S45年5月28日 |
大きさ/時代 | H1.51m/鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市岡町246(西隆寺) |
石 造 題 目 塔 (本堂前) | 石 造 題 目 塔 (墓地内) |
今宿町の中山道に面して本像寺がある。境内と墓地に1基ずつ塔が現存する。本堂前の題目塔(写真左)は周囲より高くなった塚様の高まりに建立されている。日蓮宗の御題目「南無妙法蓮華経」が刻まれ、貞治六年(一三六七)未丁十一月十七日の銘文が残っていて室町時代初期の作であることがわかる。 墓地にあるもう一基の題目塔(写真右)は大永四年(一五二四)十月二十九日の銘があり、室町時代後半の作である。ともに屋根形の石の上に宝珠を備えているが、退化した形となっている。
名称 | 石造題目塔(せきぞうだいもくとう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 建造物 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
大きさ/時代 | 本堂前H192.5cm 墓地内H95.5cm/室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市今宿一丁目(本像寺) |
今宿町樹下神社境内の南端に江戸時代後期の石造常夜灯がある。塔の軸石の銘文によると建立されたのは天保2年(1831)で、願主は伊勢屋佐七である。現在は方形の石積壇を基礎とし、その上に三層の段を設けているが、建立当初は、「宿内安全」の文字を刻んだ3段目以上であったと思われる。 この塔は、元は直ぐ北側にある吉川の傍ら(土橋の付近)にあったと伝えられるが、石壇にある銘文によって、明治2年(1869)、明治6年(1873)、明治23年、昭和10年と4回にわたって修理が行われ、明治2年には現在地に移転されたと推定される。 銘文には、伊勢屋佐七のほか、金毘羅大権現、太神宮、国名(武州、三州、濃州など)、世話人(銭や清介、池田屋治郎左衛門など)、宿内安全などが見られる。 伊勢屋佐七は今宿の超勝寺の檀家名にあるものの、どのような人物であったか明瞭でないが、守山宿の商家、宿屋主などを建立の世話人としているので、宿場に関係する人物であったことがわかる。また、銘文には商売繁盛、往来安全を願った金毘羅権現などがあり、旅商人であった可能性がある。
名称 | 石造常夜灯(せきぞうじょうやとう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 建造物 |
文化財の指定日 | H11年5月10日 |
大きさ/時代 | H4.14m/江戸時代 |
文化財の所在地 | 守山市今宿一丁目(樹下神社) |
石造宝篋印塔は、山門を入って本堂に向かう角に二基が安置されている。
向かって左側の石造宝篋印塔は、別の屋根蓋の上に安置されていて、本来的には1.1m前後の塔と推定される。基礎石には格狭間を入れ、その上に軸石、屋根石、相輪を載せる。屋根蓋石の勾配や隅飾りの反りは少ない。右側の塔もほぼ同様の高さとなる。格狭間に蓮を刻んだ基礎石の上に軸石、屋根蓋石、相輪を載せる。相輪上端が欠けているが、ほぼ完存している。二基とも屋根石は軒の反りが少なく、右側には明徳三年(1392)、左側には永享六年(1434)の銘があり、ともに室町時代の作であることがわかる。 守山市内には、鎌倉時代の東門院石造宝篋印塔が唯一完全な状態で保存されているが、室町時代の作で全形を保存するものは数少ない。形の整った紀年銘のある石造宝篋印塔として価値が高い。名称 | 石造宝篋印塔 2基(せきぞうほうぎょういんとう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 建造物 |
文化財の指定日 | H12年5月12日 |
大きさ/時代 | H1.3m/室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市守山一丁目(守善寺) |
称名院の石造宝篋印塔は同寺の墓地に建立されていて、二段の台石に安置されている。基礎石、塔身、屋根蓋、そして上半を欠く相輪を載せ、高さは約1.35mを測る。 基礎石には格狭間を入れ、内に蓮華を刻む。屋根蓋の隅飾りは反りが少なく室町時代後期の特徴を示す。銘はないが、ほぼ完全な状態で保存されている室町時代の宝篋印塔は市内では数少なく、価値が高いことから、市の文化財に指定されている。 宝篋印塔とは、石塔内に「宝篋印陀羅尼の咒文」を奉籠したことに由来するが、後に供養塔、墓碑塔として建てられるようになる。
名称 | 石造宝篋印塔(せきぞうほうぎょういんとう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 建造物 |
文化財の指定日 | H12年5月12日 |
大きさ/時代 | H1.3m/室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市小浜町731(称名院) |
境内の本堂と書院との間に板碑が保存されている。板碑とは、供養のためにつくられた石造塔婆の一種である。方柱状の石材を用いて、頂部を山形に刻み、肩部に二段の切り込みと前方に突出した額部を作り、以下を身部とする。身部の上半には尊像や種子を配する。種子は、仏や菩薩等を標示する梵字である。 観音寺の板碑は、幅29㎝、地上高約1mの規模で、花崗岩でつくられ、月輪には虚空蔵種子を刻む。銘はないが、形状と種子等の表現からみて、鎌倉時代後期の作と考えられる。滋賀県内の鎌倉時代の板碑は、僅か十数例しかなく貴重である。
名称 | 石造板碑(せきぞういたび) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 建造物 |
文化財の指定日 | H12年5月12日 |
大きさ/時代 | H0.8m/鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市水保町142(観音寺) |
西蓮寺の板碑は、本堂に向かって右側の庭園にある高田信岳顕彰碑の横に保存されている。 板碑とは、方柱状の石材の頂部を山形に刻み、肩部に二段の切り込みと、前方に突出した額部を作り、以下を身部とした石造塔婆の一種である。身部の上半の月輪に尊像や種子を配することが多い。種子は、仏や菩薩等を標示する梵字である。 本板碑は、幅28㎝、地上高77㎝の規模で、花崗岩で作られていて、月輪内には阿弥陀一尊種子を彫刻している。銘はないが、形状と種子等の表現からみて鎌倉時代後期と考えられる。市内には鎌倉時代の板碑は、水保町観音寺と西蓮寺しかなく、貴重である。
名称 | 石造板碑(せきぞういたび) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 建造物 |
文化財の指定日 | H12年5月12日 |
大きさ/時代 | H0.6m/鎌倉時代 |
文化財の所在地 | 守山市播磨田町456(西蓮寺) |
区分 | 名称 | 年代 | 指定年月日 | 所有者・管理者 |
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市 | 石造道標 | 江戸 | 昭和52年4月30日 | 滋賀県 |
中山道の本町西端近くの三差路に石の道標がある。高さは1・5mで幅30cm角の四角柱で先端は尖っている。道標の側面には文字が刻まれ、「右 中山道井美濃路」「左錦織寺四十五丁こ乃者満みち」が読める。また、背面には延享元年(1744)に大津市の西念寺講中によって建立されたことが記録されている。文字の中の「こ乃者満」は木浜で琵琶湖へ通じる路を示している。石造道標として、この頃に建てられたものは少なく、貴重な資料となっている。
名称 | 石造道標(せきぞうどうひょう) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 有形民俗文化財 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
大きさ/時代 | H150cm/江戸時代 |
文化財の所在地 | 守山市二丁目(中山道路上) |
区分 | 名称 | 指定年月日 | 保存団体 |
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国・県 | 近江のケンケト祭り・長刀振り | 昭和59年12月20日 | 小津神社長刀踊保存会 |
国・県 | 近江のケンケト祭り・長刀振り | 昭和59年12月20日 | 下新川神社神事保存会 |
県 | 古高の鼓踊り | 昭和56年4月24日 | 古高鼓踊保存会 |
県 | 火まつり | 昭和33年11月7日 | 勝部神社松明組 |
県 | 火まつり | 昭和33年11月7日 | 住吉神社火まつり保存会 |
市 | 豊年踊り | 平成9年4月1日 | 吉身祭礼保存会 |
長刀振りの少年たちの行進 | 田楽踊りのササラを演じる少女たち |
千四百年の昔、欽明天皇のころ、琵琶湖のはんらんにより湖中へ流失した神霊を迎えた際、氏子らが踊りを奉納したのが、このまつりの始まりと言い伝えられている。 かねや太鼓の音頭とともに小、中学生を中心に約二百五十人の踊り手が「ヤーアイ」の掛け声とともに長刀を左右に振り回しながらの行列や、また鮮やかに長刀を上空へ放り上げたり、体を回転させる妙技を披露したりする。このまつりには、一列になって行進する「長刀振り」とササラ、笛、鉦(しょう)、鼓(つづみ)、太鼓などの囃子(はやし)に合わせて音頭を取りながら踊る「田楽踊り」とがある。
名称 | 近江のケンケト祭り・長刀振り(おうみのけんけとまつりなぎなたぶり) |
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文化財の種類 | 国選択無形民俗文化財・県選択無形民俗文化財 |
文化財の指定日 | 国S59年12月20日 県S33年11月7日 |
保存団体 | 小津神社長刀踊保存会 |
鮒ずし(鮒を米麹で発酵させた伝統食) | 若衆による「すし切り神事」の奉納の様子 |
すし切り神事は約二千年前、崇神(すじん)天皇の皇子、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が幸津川を訪れられたときに、琵琶湖でとれたフナの塩づけを焼いてさしあげたのが始まりとされている。拝殿前の広場にかみしも姿の若者二人が座り、長いはしと包丁を使って子持ちのふなずし十匹をサイコロのように切り分け神前に供える。定められた古式の作法にのっとり大きな動作でゆっくり切るのが特徴。まつり当日は、観客から、歓声があがったり、ひやかされたりする中、ふなずしを崩さないよう細かく確実に切りさばかなければならないとあって非常に難しく、度胸がいる。
名称 | 近江のケンケト祭り・長刀振り(おうみのけんけとまつりなぎなたぶり) |
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文化財の種類 | 国選択無形民俗文化財・県選択無形民俗文化財 |
文化財の指定日 | 国S59年12月20日 県S33年11月7日 |
保存団体 | 下新川神社神事保存会 |
古高の鼓踊りは雨乞いの結果、天の恵みで雨が降った時、感謝するときに奉納される踊りであると伝えられている。このため、毎年奉納されるものではないが、昭和56年に県選択を受けた時から8月下旬に大将軍神社で開催されるようになった。踊りには歌詞がつき「道行歌、御礼踊り、屋かた踊り、宝踊り、志よもん踊り、帷子踊り、牛若踊り、天狗踊り、鶯踊り、加賀踊り、笠の踊り、坂東踊り、綾の踊り、嫁ふり踊り、十九踊り、綾の所望踊り、晦日踊り」などの種類がある。それぞれの歌詞には昔の人々の考えが読み込まれている。踊りは古く、鎌倉時代以降に普及した田楽の影響で成立したと考えられる。中央に音頭取りその外に太鼓踊り、踊り子が輪を組んで行われる。
名称 | 古高の鼓踊り(ふるたかのこおどり) |
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文化財の種類 | 県選択無形民俗文化財 |
文化財の指定日 | S56年4月24日 |
保存団体 | 古高鼓踊保存会 |
約八百年続く祭りで、その起源は土御門天皇の時代にさかのぼると言われている。時の帝・土御門天皇が重い病気になられたのでその原因を占い師に占わせたところ『近江国栗太郡と野洲郡の境に大きい沼があり、ここに数千年生きる「大蛇(おろち)」がいて、天皇に危害を与えている。このままでは、御命を奪うだろう』と答えた。そこで宮中では直ちに「おろち退治」の兵を現地に派遣したが、「おろち」はなかなか姿を現さなかった。このため神社では50日の願掛け祈願がおこなわれ、その満願の日、弱った大蛇が境内に這い出てきたのでこれを打ち殺し焼き払ったところ、病気が快癒されたので、これを記念に大蛇にみたてた大松明を焼いて無病息災・病気平癒・五穀豊穣を祈願する祭りとなった。
名称 | 火まつり(ひまつり) |
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文化財の種類 | 県選択無形民俗文化財 |
文化財の指定日 | S33年11月7日 |
保存団体 | 勝部神社松明組 |
鎌倉時代初期の『土御門天皇が病気になられたとき、夢枕に老人が現れ、その原因が浮気に住む竜で、竜を退治すると病気が治ると言われた。その後、竜が退治されたため、天皇の病気が治ったことから、村人がこれを記念して竜の頭になぞらえた松明を祭神に供え、御悩平癒を唱えたのがはじまり』とされている。 祭礼の準備は1月3日からはじまり、40~60貫の柴と太い竹、縄5巻を使って松明に結うことから始まる。祭礼当日は、午前中に御弓射式が行われ、午後8時頃に神火が点火される。この神火の点火には、若衆が褌姿で、仮屋で濡れ莚を被せた火床から競って火をとる儀式が行われ、このとき、「ゴーヨ・ヘーヨ」の掛け声を掛けながら仮屋の壁を叩きながら火採りを競う。
名称 | 火まつり(ひまつり) |
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文化財の種類 | 県選択無形民俗文化財 |
文化財の指定日 | S33年11月7日 |
保存団体 | 住吉神社火まつり保存会 |
吉身4丁目に鏡座する馬路石遽神社では昭和30年代まで、豊年踊りが毎年5月13日に奉納されていたが、昭和40年代から衰微していた。その後、有志の努力により昭和51年に保存会が結成され、復活された。踊りは広く分布する「ケンケトまつり」の範疇に属すもので、歌詞や踊りから、元は、中世の田楽の系統と考えられる。 現在は毎年、5月4・5日に奉納されている。玉津村史によれば、元は小津神社の祭礼に属していたと伝えるが、吉身が独立した祭礼を行うようになった経緯は定かでない。踊りは太鼓持ちと太鼓打ちが中央、周りで音頭取り、稚児が輪をつくり、音頭取りの歌詞に合わせて舞い、奉納される。歌詞は小津神社の祭りと共通であるが節回しがやや異なる。
名称 | 豊年踊り(ほうねんおどり) |
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文化財の種類 | 市指定無形民俗文化財 |
文化財の指定日 | H9年4月1日 |
保存団体 | 吉身祭礼保存会 |
区分 | 名称 | 年代 | 指定年月日 | 所有者・管理者 |
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国 | 下之郷遺跡 | 弥生 | 平成14年3月19日 | 守山市 |
国 | 伊勢遺跡 | 弥生 | 平成24年1月24日 | 守山市 |
県 | 今宿一里塚 | 江戸 | 平成7年3月31日 | 守山市 |
市 | 聞光寺庭園 | 室町 | 昭和52年4月30日 | 聞光寺 |
市 | 蜊江神社境内 | 近世 | 昭和52年4月30日 | 蜊江神社 |
市 | 大庄屋諏訪家屋敷 | 江戸 | 昭和52年4月30日 | 守山市 |
市 | 古高古墳群 | 古墳 | 昭和52年4月30日 | 守山市 |
市 | 寺山古墳群 | 古墳 | 昭和52年4月30日 | 守山市 |
市 | 蓮生寺境内(本堂除く) | 近世 | 昭和52年4月30日 | 蓮生寺 |
市 | 山本正右衛門家住宅 | 江戸 | 平成25年12月27日 | 個人 |
昭和55(1980)年の公共下水道工事で弥生時代の溝、柱穴が検出され、弥生土器、石鏃が出土したことから、下之郷遺跡と命名されました。その後、下之郷町一帯で行われる工事に注意を払って発掘調査などを実施し、下之郷遺跡が3条以上の環濠を巡らせる巨大な環濠集落であることが判明しました。平成10年、市道改良工事で発掘調査を実施した結果、6条の環濠、円形壁立式建物、遺跡中央部で方形区画溝や掘立柱建物などが発見されました。それにより本遺跡が滋賀県最大の環濠集落であり、当時の政治動向や社会、人々の生活を窺う出土品が豊富に埋蔵され、自然環境も復原できる遺跡であることが判明し、平成14年3月に国指定史跡となりました。 下之郷遺跡は、弥生時代中期後葉(紀元前3~前1世紀)の多重環濠集落跡です。集落の外周には3~9重の環濠が掘られていて、遺跡の全体規模は東西約670m、南北約460mで、面積はおよそ25ヘクタールにおよび近江地域で最大を誇ります。 環濠の内側、集落部分には掘立柱建物、壁立式平地建物、井戸跡などが密集しており、竪穴住居は発見されていません。集落西側の環濠には出入口が確認されていて、その付近では石剣、石鏃、銅剣、弓などの武器や武具が数多く出土していることから、戦いもあったことが推定されます。集落の中央部では、およそ東西南北方向に掘られた溝で区画された大型建物跡が複数みつかっており、祭りや政治などを行う特に重要な場所ではないかと推定されます。
名称 | 下之郷遺跡(しものごういせき) |
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文化財の種類 | 国指定史跡 |
文化財の指定日 | H14年3月19日 |
大きさ/時代 | 32,866.5平方メートル/弥生時代 |
文化財の所在地 | 守山市下之郷一丁目他 |
伊勢遺跡は、守山市伊勢町、阿村町、栗東市野尻に広がる弥生時代から鎌倉時代の集落跡です。昭和55年に発見され、平成23年度までに約110箇所余りで発掘調査や試掘、確認調査を実施してきました。その結果、西はJR線の少し西側、北は日本バイリーン株式会社近く、東側は日本コカコーラ株式会社、南は栗東市野尻までの広さで、東西約700m、南北約400mに達し、面積が約30万平方メートルの巨大な集落跡であることがわかりました。弥生時代後期の集落遺跡としては国内最大級の遺跡です。 平成4年、伊勢遺跡の中心部で、弥生時代後期の国内最大の大型建物跡が発見されました。その後、4棟の大型建物がL字型に配置されていることがわかり、政治を執り行う施設と考えられています。また、翌年から平成15年にかけて、祭殿と呼ぶ建物跡が次々と発見されたほか、楼観(ろうかん)と呼ばれる多層構造の大型建物などが発見されています。現在までに大型建物が合計13棟も見つかっていて大型建物の発見数も全国最多であり、近江南部地域を中心に形成されたクニの中心となる遺跡と考えられています。 このような遺跡は国内では例がなく、弥生時代の王の住いと政治や祭祀が行われた貴重な遺跡です。我が国の歴史上、国の成り立ちを知ることができる国内唯一の遺跡として高く評価されています。
名称 | 伊勢遺跡(いせいせき) |
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文化財の種類 | 国指定史跡 |
文化財の指定日 | H24年1月24日 |
大きさ/時代 | 15,716平方メートル/弥生時代後期 |
文化財の所在地 | 守山市伊勢町 |
慶長9年(1604)に、徳川家康によって主要街道(東海道、中山道、日光街道など)に一里塚が築かれた。街道が集束する江戸日本橋を起点として、一里(約4㎞)毎に街道の両側に築かれた5間(約9m)四方の塚で、そこには榎や松などが植えられた。今宿一里塚は日本橋から127里(約500㎞)にあたる。129番目の一里塚となる。 一里塚は、馬や籠の駄賃の基準となった他、街道を旅する人々の旅程の目安でもあり、格好の休息場でもあった。明治時代には、多くの一里塚が残っていたと思われるが、自動車の普及による拡幅工事によって、大多数が消滅した。今宿一里塚は、滋賀県内で唯一残るもので、全国的にも数少ない陸上交通に関わる史跡で、県指定文化財となっている。
名称 | 今宿一里塚(いまじゅくいちりづか) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | 平成7年3月31日 |
時代 | 江戸時代 |
文化財の所在地 | 守山市今宿二丁目 |
蓮如聖人の教化を受けて造られた荒見道場が発展して寺院になった聞光寺は、信長との戦禍から逃れ、当時のたたずまいを良く残している。庭園は本堂の西側にあり、蓮如聖人の手によるものと伝えられ、築山の形状を採用したものである。真宗寺院の庭の例としては数少ないものと言える。古式の形をよく残しており、室町時代の作と考えられている。
名称 | 聞光寺庭園(もんこうじていえん) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
大きさ/時代 | 150.8平方メートル/室町時代 |
文化財の所在地 | 守山市矢島町76(聞光寺) |
笠原町の北側、野洲川に摸して鎮座する蜊江禅社は約4200坪もある広大な境内で、閑静なたたずまいである。明治初期に全国で廃仏毀釈が徹底され、神社に元々あった仏堂、仏像、仏具が取り払われたが、本神社は神仏習合当時の社殿配置を整然とした姿で伝えている。全国的に見ても非常に貴重な例であると考えられる。境内には、地蔵堂などの堂が今も残っており、門も古い形式で残っている。毎年、夏には神前で僧侶により、大般若経の転読が古式にのっとり行われている。
名称 | 蜊江神社境内(つぶえじんじゃけいだい) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
大きさ/時代 | 面径13,860平方メートル/近世 |
文化財の所在地 | 守山市笠原町939(蜊江神社) |
赤野井町の東別院の北側に、広大な敷地に草葺きの民家がある。江戸時代から続いた由緒ある庄屋の建物である。屋敷地は面積約4,000㎡もあり、内部に母屋、客殿、蔵、茶室、庭園をひかえている。母屋、客殿、庭園、蔵、は江戸時代後期の作で、茶室のみ明治になって大津市円満院から移築された。庭園は池泉回遊式と枯山水式とを合わせた見事なコケのあるものである。また、屋敷裏の大川から米を積んだ船が出入りできるように水門が作られている。
名称 | 大庄屋諏訪家屋敷(おおじょうやすわけやしき) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
大きさ/時代 | 3,980平方メートル/江戸時代 |
文化財の所在地 | 守山市赤野井町171 |
松 塚 古 墳 | 幸 田 塚 古 墳 | 狐 塚 古 墳 |
古高工業団地の中に三基の古墳が保存されている。東側から狐塚、松塚、幸田塚古墳の名が付けられている。工業団地造成の際に伝承のあった古墳が保存されたのだが、三基の中で最大の古墳が松塚である。直径約30mの円墳で、昭和60年ころまでは表面には松がたくさんあったことからその名が付いた。5世紀後半頃に造られたと考えられる。 狐塚は昭和30年代ころには古墳の上に祠があったらしく、古墳の形も少し変形しているが、直径15m前後の円墳と考えられる。およそ6世紀頃に築かれたと考えられる。 一番西側の幸田塚古墳は相当崩壊しているが、円墳で直径10m前後であったと考えられる。やはり6世紀頃の古墳である。
名称 | 古高古墳群(ふるたかこふんぐん) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
時代 | 古墳時代 |
文化財の所在地 | 守山市古高町 |
寺 山 古 墳 1 号 墳 | 寺 山 古 墳 2 号 墳 |
岡町の自治会館北側の公園の中に1基(1号墳)とその南側に約50m離れて1基(2号墳)が保存されている。守山市では数少ない現存する古墳の一つである。2基とも直径約15m前後の大きさで高さも2m前後と考えられる。1号墳は大正年間に発掘調査が行われ横穴式石室が見つかり、埴輪、須恵器、土師器が出土している。この岡町から立入町にかけては多数の古墳があったようで字名などにも塚の名が残っている。
名称 | 寺山古墳群(てらやまこふんぐん) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
時代 | 古墳時代 |
文化財の所在地 | 守山市岡町 |
三宅町の南端にある蓮生寺は周囲に土塁が巡っている。江戸時代初期に再建されたが、元は三宅城跡とされている。織田信長が元亀年間にこの一帯の一向宗徒を攻め、攻略したが、隣接の金森町懸所にあった金森城の出城として造られた伝承のある土地である。
名称 | 蓮生寺境内(本堂除く)(れんしょうじけいだい) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | S52年4月30日 |
大きさ/時代 | 2,242平方メートル/近世 |
文化財の所在地 | 守山市三宅町1029(蓮生寺) |
中山道守山宿の加宿であった今宿一丁目143番町に存する主屋および蔵2棟、庭園3か所は江戸時代末期に建築、造園時期が比定できる。 主屋は中山道に面する平入りの商家風建物で、木造二階建て切妻造り、桟瓦葺きの建物で、間取りは2列5室である。建物内部の土間の構成や架構は重層な雰囲気を醸し出している。外観は、格子窓が連なる「つし2階」の主体部を中央にして、左側には格子窓と下地窓の並ぶ平屋建ての棟と土蔵を配し、右側には落棟の座敷の前面に板塀と門を構え、変化に富み、江戸時代末期にふさわしい豪壮かつ繊細な商家風建物である。また、母屋、庭園で隔てられた位置に建つ蔵は、一つの屋根を中央で分割する大変珍しい特徴があり、貴重である。 庭園は利用形態の異なる3か所が現存している。上手街道側に来客用座敷に備えられた小規模な前庭は、表門から沓脱石まで直線的に石畳が敷かれ、数本の樹木で構成された簡素な庭園である。その延長にある庭園は、石燈籠、土蔵を背景にした石組などの基本的な構成が保たれている。泉水を配した庭園は、数奇の空間を保ち、客間から池の水際まで降りる石段の構造となっており、煎茶の庭にみる「降り井」を意図させる。3か所の庭園はいずれも改修の手が加えられているものの良好な状態が保たれており、主要な意匠および構成要素が損なわれていない。
名称 | 山本正右衛門家住宅(やまもとしょうえもんけじゅうたく) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 史跡 |
文化財の指定日 | H25年12月27日 |
大きさ/時代 | 588.98平方メートル/江戸時代 |
文化財の所在地 | 守山市今宿町143(山本) |
区分 | 名称 | 指定年月日 | 所有者・管理者 |
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県 | 大日堂の妙蓮およびその池 | 昭和40年3月26日 | 西隆寺・近江妙蓮保存会 |
市 | 銀木犀 | 平成9年4月1日 | 少林寺 |
市 | オハツキイチョウ | 平成9年4月1日 | 東門院 |
美しく開花した妙蓮の花(7月末から8月初め頃) | 妙蓮池に育つ妙蓮と池の中央部に架けられた橋 |
天台宗の慈覚大師(円仁)によって中国から持ち帰ったと伝えられる妙蓮は毎盛夏、貴重な花を付ける。名前の由来は、一つの茎に数個の花を付けることからで、2から最大で12に達する。中国では十二時蓮あるいは千弁蓮とも呼ばれ、国内でも双頭蓮と呼ばれたことがある。田中の妙蓮は明治38年以降、開花しなくなっていたため、昭和35年に故大賀一郎博士が大日堂の池から移植していた金沢市の持明院から再移植され、熱心な研究の結果再び開花することになった。古記録も地元に残っており、江戸時代から明治にかけての「蓮華立覚之記」などから、天皇、皇室、大名に献上されていたことがわかる。
名称 | 大日堂の妙蓮およびその池(だいにちどうのみょうれんおよびそのいけ) |
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文化財の種類 | 県指定文化財 天然記念物 |
文化財の指定日 | S40年3月26日 |
大きさ | 327平方メートル |
文化財の所在地 | 守山市中町1728 |
一休宗純お手植えの、樹齢数百年の銀木犀の老木 | 金木犀と違い、白くほのかな香の花を咲かせる |
少林寺境内中央にある「一休宗純お手植え」の伝承を持つ銀木犀は推定樹齢が数百年に達する古木である。木犀の中でこれほど樹齢を重ねた例は少なく、しかも、伝承を有す貴重な樹木として位置づけられる。
名称 | 銀木犀(ぎんもくせい) |
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文化財の種類 | 市指定文化財 天然記念物 |
文化財の指定日 | H9年4月1日 |
大きさ | H11m |
文化財の所在地 | 守山市矢島町1227(少林寺) |
樹齢600年のオハツキイチョウの大木 | イチョウの枯葉に付いているギンナンの実 |
東門院の境内、南端の川岸にある高木のイチョウは葉の一部に「ぎんなん」を付ける。これをオハツキイチョウと呼び珍しい植物学的特徴である。県内では米原町に国指定天然記念物の了徳寺オハツキイチョウがある。
名称 | オハツキイチョウ |
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文化財の種類 | 市指定文化財 天然記念物 |
文化財の指定日 | H9年4月1日 |
大きさ | H30m 胸高幹廻り340cm |
文化財の所在地 | 守山市守山二丁目(東門院) |