東西を結ぶ
1.東西日本の結節点
近畿地方では弥生時代後期の大型建物のある遺跡は少なく、伊勢遺跡の特異性が際だっています。
伊勢遺跡から東へ約8km離れた野洲市大岩山では24個もの銅鐸が出土しています。突線紐式と呼ばれる弥生時代後期につくられた銅鐸ですが、西日本に分布する近畿式銅鐸と東海地方に分布する三遠式銅鐸が一緒に埋納されていました。銅鐸が埋められた時期は弥生時代の終わり頃と推定され、伊勢遺跡の衰退期に重なっています。弥生時代の終わり頃に、東西の銅鐸が野洲川流域に集められ、埋納されていることから、伊勢遺跡は東西日本の結節点として機能していたとも考えられます。
古墳時代の開始に先立って、東西のクニの長が、伊勢遺跡に集まって、祭祀を行い、政治的な協議を行っていたのではないかとも考えられています。
銅鐸の形とその種類(「小篠原大岩山出土の個人収蔵銅鐸について」 進藤武
『野洲町立歴史民俗資料館研究紀要 第4号 1994年 より加筆転載)
- 伊勢遺跡から出土した手焙り型土器
- 水銀朱が塗られた土玉(方形区画内出土)
2.旧河道と琵琶湖
伊勢遺跡の南側には幅15~30mほどの川が流れていたことがわかっています。川岸の一部には護岸の跡があり、川を水運として利用していたとみられます。祭殿と見られる独立棟持柱付建物(SB-5)からヒノキの柱根が出土していますが、筏(いかだ)を組むための切り込みがみられました。川を利用して大きな柱材を運んでいたことが想像されます。
また、遺跡内からは大阪から持ち運ばれた大型の壺や北陸・東海地方の土器が出土していて、琵琶湖や湖に注ぐ川を利用して人や物が運ばれていたと推測されます。
- 伊勢遺跡復元図(想像図)(中井純子画)
- 棟持柱の柱根(SB-5)