寺内町金森
戦国時代に浄土真宗などの寺院を核として、道路や家屋を計画的に配置し、濠や土塁で防御された自治都市を寺内町と呼んでいます。中でも蓮如の布教活動に伴って形成された寺内町が数多く存在します。
蓮如は、寛正(かんしょう)6年(1465)の比叡山の僧兵による「寛正の破却」によって、京都から避難し金森の道西のもとに身を寄せます。金森道場(後に御坊、あるいは懸所と呼ばれます。)を拠点に布教活動を行うとともに、金森御坊や善立寺・因宗寺を中心とした集落のまわりに濠を巡らせ、土塁を築き、天台宗(比叡山)に対する防御を固めた寺内町の形成を進めます。
翌7年(1466)の、一向衆徒が比叡山の僧兵に反抗した金森合戦は、歴史上初の一向一揆といわれています。
蓮如はその後、福井県あわら市吉崎に移り、寺内町として吉崎御坊を形成しますが、ここでも金森での寺内町づくりのノウハウを活かしたことでしょう。
形成からおよそ1世紀後、金森寺内町は織田信長の宗教弾圧に対して蜂起した一向一揆の拠点となり、一向衆徒は元亀(げんき)2年(1571)と3年(1572)の2度にわたり、織田信長軍と戦いました。
金森御坊の南側には、近年までその当時の土塁跡が残っていましたし、現在の町並みもその面影を強く留めています。
金森は、その後盛行する寺内町形成の先駆的な形態といわれています。