大庄屋諏訪家屋敷(市指定文化財史跡)
諏訪家の歴史
諏訪家に残る系図によると、諏訪家は永正(えいしょう)年間(1500年ごろ)に諏訪左近将監長治(さこんしょうげんおさはる)(小笠原貞朝次男弟)が信州より来たことに始まると伝えられていますが、確かなことは分かっていません。諏訪家のことがはっきり分かるようになるのは、江戸時代に入ってからのこととなります。諏訪家がある赤野井村は元和9年(1623)に成立して幕末まで存続した淀藩(よどはん)の近江国内での飛び地領地でした。諏訪家は淀藩領で「大庄屋」をつとめ、代々農民の指導者となってきました。明治維新後、諏訪家当主諏訪安明(やすあき)は、大津県に続き滋賀県に出仕し、その後、初代野洲郡長に任命され、その子安敬(やすたか)も玉津村長に選任されるなど、地方自治にも功績を残しています。諏訪家の特徴
- 石橋から表門への道
- 釈迦堂川にかかる石橋を渡って土塀を右に見ながら、苔蒸した道から表門を通り、書院、主屋に出る通路が空間的にも大変緊張感のあるものとなっています。建築物にはほかに東別院に通じる通用門、北西の竹薮には裏門があり、敷地は約4,000㎡です。
- 表門
- 江戸時代後期の主屋には庄屋建物にある接客用の部屋が無く、別棟で客を迎える書院を建築しています。各建物の建築年代は不詳ですが、文政(ぶんせい)年間の祈祷札や書院破風板(はふいた)の天保(てんぽう)年間の墨書などを参考にすると、文化(ぶんか)頃に2棟が合せて建築された可能性が高いと思われます。以上のように、諏訪家屋敷は、近世の和風建築と庭園を有する密度の高い大庄屋屋敷として、滋賀県内にも数少なく、大変重要な屋敷です。
建造物
【主屋】 入母屋造、茅葺き屋根の大型農家住宅で、棟は南北、東向き平入りです。内部は土間と畳部屋がほぼ半々で、玄関を入ると「おもてにわ」、「にわ」があり、土間には女部屋や風呂、おクドさん(カマド)があります。畳部屋は「だいどこ」、「かみだいどこ」、「なんど」、「おいま」「仏間」などがあり、にわの上は「つし」となっていて、藁や茅を保存する空間となっています。「つし」から合掌組みが見られます。
【書院】 入母屋造、茅葺き屋根の接客用建物で、南向きです。玄関に式台が付設され、内部は玄関座敷、中座敷、奥座敷がL字に配置され、各部屋に床の間があります。玄関座敷の右手に2畳の間があり、従者の待合室になっていました。
【茶室】 明治になって大津円満院(えんまんいん)から移築したもので、上段の間が設けられ、縁が付設されています。元禄(げんろく)12(1692)年の銘のある瓦が葺かれていました。江戸前期の茶室建築として数少ない隠れた秀作です。
【土蔵】 2棟あり、主屋に接するものは江戸後期で板間が2室、敷地の北隅の1棟は矢島町から移築したものです。
庭園
書院の奥座敷から眺められる庭園は、築山と大きな岩を配した枯山水(かれさんすい)式庭園です。大きな立石と築山の間には苔が密集しており、石と苔で谷や滝を拵(こしら)えています。小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作とも伝えますが、不詳です。主屋北側と書院中座敷から見える庭園は、中央に琵琶湖型の池を配置し、その周囲に飛び石を配置した池泉(ちせん)回遊式(かいゆうしき)庭園です。現在は釈迦堂(しゃかどう)川の水位が下がって水はありませんが、池の北端には石の丸橋や水門があり、船を引き入れていました。また、庭園の北東隅には信州から勧請(かんじょう)した諏訪神社を祀っています。- 平成30年7月1日より一般公開を行っています
- お問い合わせは大庄屋諏訪家屋敷 TEL077-516-8160まで